「義」について その1

ローマ人への手紙4章6節から8節までに、次のように書かれています。
***
6節
ダビデもまた、行いとは別の道で神によって義と認められる人の幸いを、こう言っています。
7節
 「不法を赦され、罪をおおわれた人たちは、
 幸いである。
8節
 主が罪を認めない人は幸いである。
***

 

6節1行目から、「・・・行いとは別の道で神によって義と認められる人・・・」とあります。これは、アブラハムのような人のことを言っているのではないでしょうか。4章1節から3節までに、次のように書かれています。
***
1節
それでは、*肉による私たちの父祖アブラハムの場合は、どうでしょうか。

 

* 別訳「私たちの先祖アブラハムの肉による場合」

 

2節
もしアブラハムが行いによって義と認められたのなら、彼は誇ることができます。しかし、神の御(み)前では、そうではありません。
3節
聖書は何と言っていますか。「それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義とみなされた」とあります。
***

 

2節に書かれていることからすると、アブラハムは、「行いによって義と認められた」のではない、ということが分かります。

 

3節には、「・・・アブラハムは神を信じた。それが彼の義とみなされた・・・」、とあります。「それが」の「それ」というのは、「アブラハムが神を信じたこと」、と言うことができると思います。「アブラハムが神を『信じた』ことが彼の義とみなされた」、となります。

 

つまり、アブラハムは「『行い』によって義と認められた」のではなく、「神を『信じた』こと」、すなわち『信仰』が「彼の義とみなされた」、と言うことができると思います。

 

6節1行目からの、「・・・行いとは別の道で神によって義と認められる人・・・」というのは、アブラハムのような人のこと、と考えられます。

 

それはまた、5節に書かれているような人のこと、ではないでしょうか。4章5節は、次のようになっています。
***
4章5節
何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。
***

 

「何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を『信じる』なら、その『信仰』が義とみなされるのです。」とあります。「何の働きもない者」、について書かれています。

 

「何の働きもない者」でも、「『信じる』なら、その『信仰』が義とみなされる」、ということが書かれています。『行い』ではない、と言えると思います。

 

6節1行目からの「・・・行いとは別の道で神によって義と認められる人・・・」というのは、アブラハムのような人のこと、また、5節に書かれているような、「何の働きもない者」のこと、と言うことができると思います。

 

ダビデは、そのような、「行いとは別の道で神によって義と認められる人」の『幸い』について、言っている、ということになります。

 

7節の、「不法を赦され、罪をおおわれた人たちは、幸いである」、というのは、「行いとは別の道で神によって義と認められる人」は、「不法を赦され、罪をおおわれ」るので、「幸いである」、ということだと思います。

 

また8節の、「主が罪を認めない人は幸いである」、というのは、「行いとは別の道で神によって義と認められる人」は「主が罪を認めない」ので、「幸いである」、ということだと思います。

 

その2、に続きます。