「義」について その3

新改訳聖書』第3版のローマ人への手紙4章19節から24節までに、次のように書かれています。
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19節
アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。
20節
彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、
21節
神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。
22節
だからこそ、それが彼の義とみなされたのです。
23節
しかし、「彼の義とみなされた」と書いてあるのは、ただ彼のためだけでなく、
24節
また私たちのためです。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。
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23節から24節にかけて、『(23節)・・・「彼の義とみなされた」と書いてあるのは、ただ彼のためだけでなく、(24節)また私たちのためです。すなわち、私たちの主イエス死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。』とあります。

 

「彼の義」の「彼」というのは、19節の「アブラハム」のことです。また、「私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方」(24節)、というのは、「神」のことである、と言うことができると思います。

 

24節の「私たち」について言いますと、1行目から、「・・・私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも・・・」、とあります。「私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方」(24節)、というのは、「神」のことである、と言えるので、この場合「私たち」は、「『神』を信じる」、ということになります。

 

この場合、「私たち」は、「『神』を信じる」「信仰を義とみなされる」(24節)、ということになります。

 

そうすると、「私たち」も「アブラハム」も、「『神』を信じる」「信仰を義とみなされる」、という意味では同じである、と言うことができると思います。

 

しかし、「私たち」には、「イエス・キリストを信じる信仰による『神の』義」(ローマ3:22、「その2」中ほど)が示されたのに対して、「アブラハム」の場合は、「それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義とみなされた」(ローマ4:3、「その2」前半)とあるように、「『彼の』義とみなされた」、という点で違いがある、と言うことができると思います。

 

つまり、アブラハムの時代には、「『神の』義」は示されていなかった、ということです。

 

このように考えてよいと思われるのですが、いかがでしょうか。どのように思われますか。