「義」について その2

新改訳聖書』第3版のローマ人への手紙4章1節から3節までに、次のように書かれています。
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1節
それでは、*肉による私たちの父祖アブラハムの場合は、どうでしょうか。

 

* 別訳「私たちの先祖アブラハムの肉による場合」

 

2節
もしアブラハムが行いによって義と認められたのなら、彼は誇ることができます。しかし、神の御(み)前では、そうではありません。
3節
聖書は何と言っていますか。「それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義とみなされた」とあります。
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3節1行目から、「・・・それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義とみなされた・・・」、とあります。

 

アブラハムは神を『信じた』」、ということが、「彼の義とみなされた」、と言われています。「行いによって」(2節)ではない、ということです。

 

アブラハムの場合は、「『神を』信じた」、ということであって、「『イエスを』信じた」ということではない、と言うことができるのではないでしょうか。

 

ローマ人への手紙3章21節と22節に、次のように書かれています。
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21節
しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。
22節
すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。
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『今は』(21節)、「イエス・キリストを信じる信仰による神の義」(22節)が示された、と言うことができると思います。

 

しかし、アブラハムの時代には、イエスはまだ来られていませんでした。アブラハムはイエスを見ることも、イエスのことばを聞くこともできませんでした。『今は』(21節)というのは、『イエス以降は』と考えてもよいのではないか、と思います。

 

アブラハムの場合は、「『イエス・キリストを』信じる信仰による神の義」(22節)ではなく、「『神を』信じた」ということが、「彼の義とみなされた」(4章3節)、ということだと思います。

 

アブラハムは、「その信仰が義とみなされた」(ローマ4:10)のですから、あるいは、「信仰によって義と認められた」(同4:11)のですから、アブラハムは「行いとは別の道で神によって義と認められる人」(同4:6)であり、「不法を赦され、罪をおおわれた人」(同4:7)であり、また、「主が罪を認めない人」(同4:8)である、ので「『幸い』である」(同4:8)、と言うことができるのではないでしょうか。

 

その3、に続きます。