「子孫」について その6

ローマ人への手紙10章1節に、次のように書かれています。
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10章1節
兄弟たち。私が心の望みとし、また彼らのために神に願い求めているのは、彼らの救われることです。
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「義の律法を追い求め」(ローマ9:31)、「信仰によって追い求めることをしない」(ローマ9:32)限り、イスラエルは救われない、と言うことができると思います。

 

パウロイスラエルが救われることを願い求めているのですが、「義の律法を追い求め」、「信仰によって追い求めることをしない」限り救われないので、パウロには「大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあ」(ローマ9:2)る、ということではないでしょうか。

 

イスラエルから出る者がみな、イスラエルなのではなく、」(ローマ9:6)というのは、イスラエルから出る者ではない者であっても、イスラエルである、というようなことを意味していると思います。

 

つまり、「異邦人」であってもイスラエルである、ということだと思います。「異邦人」であっても「新しい創造という基準に従って進む人々」(ガラテヤ人への手紙6章15節と16節)であるなら、その人々は「信仰を追い求める」人々であり、「神のイスラエル」である、ということだと思います。

 

イスラエルから出る者がみな、イスラエルなのではなく、」「神のイスラエル」がいるので、「神のみことばが無効になったわけでは」ない、ということになると思います。

 

アブラハムから出たからと言って、すべてが子どもなのではなく、「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれるのだから」』、「神のみことばが無効になったわけではありません」、については、「イシュマエル」から出る者に「キリスト・イエス」はいない、ということだと思います。

 

イサクの子孫であり、またアブラハムの子孫であるキリスト・エスによって「神のイスラエル」が実現したので、「神のみことばが無効になったわけではありません」、と言うことができるのではないか、と思います。

 

「神には人を死者の中からよみがえらせることもできる」(ヘブル11:19)ということを別にすると、アブラハムが「試み」にあったとき、イサクが「ほふられていた」ら、アブラハムの子孫はそこで途絶え、イサクの子孫はいなくなります。そうすると、イエスも生まれていなかった、と考えられ、その場合「神のみことば」は『無効になった』、ということになると思います。

 

しかし、イサクが実際にほふられることはありませんでした。これによって、イサクの子孫が存在するようになること、すなわち、アブラハムの子孫が存在するようになることが可能になった、と言うことができると思います。『無効にならない』という望みがつながれた、と言うことができるのではないでしょうか。

 

また、「イスラエルから出る者がみな、イスラエルなのではなく、」(ローマ9:6)律法によらずに、信仰による人々である「神のイスラエル」がいるので、「神のみことば」は『無効になったわけではありません』、ということだと思います。

 

ローマ人への手紙9章6節には、「神のみことば」について、それが具体的にどんなみことばであるのか、は書かれていません。

 

しかし、その「神のみことば」が、仮に、創世記22章17節の「わたしは・・・あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように数多く増し加えよう・・・」というみことばと、同章18節の「あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる・・・」というみことばだとすると、ローマ人への手紙9章6節の「神のみことばが無効になったわけではありません。」という言葉は理解できるのではないかと思いますが、いかがでしょうか。

 

わたしは以前、Yahoo!知恵袋で、「ローマ人への手紙9章について」という質問をしたことがあります。2019/9/19 14:40と2019/9/28 14:56)

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14213766904

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10214179535

 

その際、ローマ人への手紙9章6節の「神のみことば」について話題にしました。今回のこの、「子孫」について、という記事でその質問に対する答えが、「少し」、出たのではないかと思います。聖書は「深い」と思われるので、さらに考えてみようと思います。