「子孫」について その4

新改訳聖書』第3版のへブル人への手紙11章17節(その3、後半)の『約束』が、どんなものかについては書かれていませんが、同章18節と19節に、次のように書かれています。
***
18節
神はアブラハムに対して、「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる」と言われたのですが、
19節
彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました。それで彼は、死者の中からイサクを取り戻したのです。これは型です。
***

 

19節に、「彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました。・・・」とあります。このことを別にすると、「自分のただひとりの子をささげた」ら、アブラハムの子孫はそこで途絶え、アブラハムの子孫はいなくなります。

 

「彼は約束を与えられていましたが、自分のただひとりの子をささげたのです」(へブル11:17)、という言葉の中には、「自分のただひとりの子をささげた」ら、アブラハムの子孫はいなくなり、約束は果たされない、ということが示唆されるのではないでしょうか。

 

「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる」(18節)としても、「自分のただひとりの子をささげた」ら、「イサクから出る者」はいなくなり、「あなたの子孫と呼ばれる」者もいなくなります。そうすると、約束は果たされない、ということになると思います。アブラハムがイサクをささげたとき、イサクにはまだ、子がいなかったからです。

 

これまで述べてきたことは、「神には人を死者の中からよみがえらせることもできる」(19節)ということを、別にした場合のことです。

 

アブラハムは「神には人を死者の中からよみがえらせることもできる」(19節)、と考えていたので、「自分のただひとりの子をささげ」ることもいとわなかったのではないか、と考えられるのです。

 

ローマ人への手紙4章19節から21節までに、次のように書かれています。
***
19節
アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。
20節
彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、
21節
神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。
***

 

21節に、「神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。」とあります。イサクが生まれたとき、アブラハムは百歳でした。創世記21章5節をご覧ください。

 

アブラハムは、「神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました」とありますが、この場合、「約束」というのは、創世記18章10節に書かれていることだと思われます。しかし、アブラハムはこの約束に限らず、神にはどんな約束も成就する力があることを堅く信じていたのではないか、と想像されます。

 

このような信仰があったからこそ、また、「神には人を死者の中からよみがえらせることもできる」(へブル11:19)、と考えていたからこそ、アブラハムは「自分のただひとりの子をささげた」のではないか、と考えられるのです。

 

ささげたとしても、「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる」ということを神は成就される、と堅く信じていたのではないかと思われます。

 

へブル人への手紙11章17節(その3、後半)の『約束』が具体的にどんなものであるのかは、書かれていないので分かりませんが、その『約束』は、「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる」ということと関係があり、「あなたの子孫」と関係がある、と言うことができるのではないでしょうか。

 

へブル人への手紙11章19節に、「・・・彼は、死者の中からイサクを取り戻したのです。・・・」とあります。実際にはイサクは「死者の中」には入っていなかったのですが、「死者の中からイサクを取り戻したのです」、と書かれています。「死者の中からイサクを取り戻した」というのは、「これは型です」とあるように、「型」として言われている、ということです。

 

何の「型」でしょうか。イエスの復活の「型」ではないかと思われますが、いかがでしょうか。

 

アブラハムは、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えて、「死者の中からイサクを取り戻した」ので、神がアブラハムに与えられた『約束』は守られることになる、ということではないかと思われます。

 

創世記22章17節と18節(その1、前半)の「みことば」は、『約束』と言うことはできないでしょうか。

 

その5、に続きます。