エレミヤ書50章について その16

新改訳聖書』第3版のエレミヤ書50章3節(その1冒頭)に、次のように書かれています。
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3節
なぜなら、北から一つの国がここに攻め上り、この地を荒れ果てさせたからだ。ここには住む者もない。人間から家畜に至るまで逃げ去った。
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2行目から、「・・・人間から家畜に至るまで逃げ去った。」とあります。

 

「逃げ去った」のは、「ここ」(2行目)から、すなわち「この地」(1行目)からです。

 

「この地」というのは、「バビロン」のことです。

 

上記2行目からの引用箇所は、「人間から家畜に至るまで」『バビロンから』「逃げ去った」、となります。

 

『バビロンから』「逃げ去った」のですから、逃げ去るまでは『バビロン』にいた、ということです。

 

「逃げ去った」のが「イスラエルの民」と「ユダの民」であるとすると、「イスラエルの民」と「ユダの民」は『バビロン』にいたのです。

 

エズラ記の時代に、捕囚の民はバビロンから帰って来ましたが、帰って来るまではバビロンにいました。

 

しかし、エズラ記の時代に捕囚の民が帰って来たときには、捕囚の民はバビロンから『逃げて来た』のではありません。エズラ記1章をご参照ください。

 

したがって、エレミヤ書50章3節(上記冒頭)に書かれていることは、エズラ記の時代に捕囚の民が帰って来たときのことではない、ということになります。

 

エレミヤ書50章3節(上記冒頭)と4節(その7第2段落)の記述から、バビロンから逃げ去った人々の中には、「イスラエルの民」と「ユダの民」がいたと考えられます。

 

イスラエルの民」と「ユダの民」はバビロンから逃げて来て、「泣きながら歩み、その神、を、尋ね求める」(50章4節)、という文脈になると思います。

 

エレミヤ書50章3節(上記冒頭)と4節(その7第2段落)の文脈からすると、「イスラエルの民」と「ユダの民」はバビロンから逃げて来たと考えられるのですが、バビロンから逃げて来たのは、彼らがバビロンにいたからです。

 

そして、「イスラエルの民」と「ユダの民」が『バビロン』にいたのは、彼らが『バビロン』に来たからです。

 

『バビロン』に来たので『バビロン』にいた、のです。

 

イスラエルの民」と「ユダの民」は、『バビロン』にいつ来たと考えられるでしょうか。

 

列王記の時代、ユダの王ゼデキヤの第十一年に、捕囚の民としてバビロンに捕らえ移されたときでしょうか。

 

エレミヤ書50章17節(その14中ほど、もしくは前半)にイスラエルは雄獅子に散らされた羊。・・・」とあります。

 

「雄獅子」がバビロンの王ネブカデレザルであるとすると、イスラエルはバビロンの王ネブカデレザルに『散らされた』、ということになります。

 

このときに、すなわち、バビロンの王ネブカデレザルに『散らされた』ときにバビロンに来た、と考えることはできるのではないでしょうか。

 

その17、に続きます。