『新改訳聖書』第3版のエレミヤ書32章38節(その5中ほど、もしくは後半)に続いて、「その1」前半で引用したエレミヤ書32章39節と40節があります。
エレミヤ書32章39節と40節は、次のようになっています。
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39節
わたしは、いつもわたしを恐れさせるため、彼らと彼らの後(のち)の子らの幸福のために、彼らに一つの心と一つの道を与え、
40節
わたしが彼らから離れず、彼らを幸福にするため、彼らととこしえの契約を結ぶ。わたしは、彼らがわたしから去らないようにわたしに対する恐れを彼らの心に与える。
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39節の『彼ら』は、38節や37節の『彼ら』と同じである、と言うことができます。
40節の『彼ら』も、さしあたり、38節や37節の『彼ら』と同じである、と言うことができます。
37節から40節までの文脈の中で考えると、39節の『彼ら』と40節の『彼ら』は、エズラ記の時代にバビロンから帰還した『捕囚の民』のことではない、と言うことができることから、39節と40節に書かれていることは、エズラ記の時代に捕囚の民が帰還したときのことではない、と言うことができます。
つまり、「わたしが・・・彼らととこしえの契約を結ぶ」(上記40節)のは、エズラ記の時代に捕囚の民が帰還したときのことではない、ということです。
では、「わたしが・・・彼らととこしえの契約を結ぶ」(上記40節)のは、エズラ記の時代に捕囚の民が帰還した『後(あと)』のことでしょうか。
エズラ記からマラキ書まで、「とこしえの契約」が結ばれた、ということについて書かれている箇所を、今のところ見つけることができません。
もし見つけたなら、もう一度考えてみます。
上で述べたように、エレミヤ書32章39節と40節に書かれていることは、エズラ記の時代に捕囚の民が帰還したときのことではない、と言うことができます。
また、エズラ記の時代に捕囚の民が帰還したとき、及びそれ以降、イスラエルの子らが「幸福に」(上記40節)なったとは思えないことからも、「わたしが・・・彼らととこしえの契約を結ぶ」(上記40節)のは、捕囚の民が帰還したときのことではない、と言うことができると思います。
エズラ記9章1節から4節までに、「捕囚から帰って来た人々の不信の罪」のことが書かれています。
エズラ記9章1節から4節までは、次のようになっています。
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1節
これらのことが終わって後、つかさたちが私のところに近づいて来て次のように言った。「イスラエルの民や、祭司や、レビ人(びと)は、カナン人、ヘテ人、ペリジ人、エブス人、アモン人、モアブ人、エジプト人、エモリ人などの、忌みきらうべき国々の民と縁を絶つことなく、
2節
かえって、彼らも、その息子たちも、これらの国々の娘をめとり、聖なる種族がこれらの国々の民と混じり合ってしまいました。しかも、つかさたち、代表者たちがこの不信の罪の張本人なのです。」
3節
私はこのことを聞いて、着物と上着を裂き、髪の毛とひげを引き抜き、色を失ってすわってしまった。
4節
捕囚から帰って来た人々の不信の罪のことで、イスラエルの神のことばを恐れている者はみな、私のところに集まって来た。私は夕方のささげ物の時刻まで、色を失ってじっとすわっていた。
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4節1行目から、「・・・イスラエルの神のことばを恐れている者はみな、・・・」とあります。
捕囚から帰って来た人々の中には、「イスラエルの神のことばを恐れている者」がいる、ということが分かります。
しかし1節の、「イスラエルの民や、祭司や、レビ人(びと)」のように、『不信の罪』を犯す者もいます。
このような者は、「イスラエルの神のことばを恐れている」、とは言えないと思います。
その7、に続きます。