エレミヤ書50章について その13

新改訳聖書』第3版のエゼキエル書34章5節(その12前半)に、「彼らは『牧者がいない』ので、散らされ・・・た。」、または「彼らは牧者がいないので、散らされ・・・てしまった。」とあります。

 

『牧者がいない』ということについては、エゼキエル書34章7節と8節に、次のようにも書かれています。
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7節
それゆえ、牧者たちよ、のことばを聞け。
8節
わたしは生きている。―神である主の御(み)告げ―わたしの羊はかすめ奪われ、牧者がいないため、あらゆる野の獣のえじきとなっている。それなのに、わたしの牧者たちは、わたしの羊を捜し求めず、かえって牧者たちは自分自身を養い、わたしの羊を養わない。
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8節でも、3節(その12前半)と同様に、「わたしの牧者たちは、・・・わたしの羊を養わない」、ということが言われています。

 

8節1行目から、「・・・わたしの羊はかすめ奪われ、『牧者がいない』ため、あらゆる野の獣のえじきとなっている。それなのに、わたしの牧者たちは、わたしの羊を捜し求めず、かえって牧者たちは自分自身を養い、わたしの羊を養わない。」とあります。

 

『牧者がいない』とあります。

 

『牧者がいない』というのは、「その12」後半で述べたように、「イスラエルの牧者たち」は「羊を養わない」ので、『牧者』とは言えない者たちである、というような意味であると思います。

 

そして、「弱った羊を強めず、病気のものをいやさず、傷ついたものを包まず、迷い出たものを連れ戻さず、失われたものを捜さず、かえって力ずくと暴力で彼らを支配した」という、エゼキエル書34章4節(その12前半)に書かれていることは、「あなたがた」(同章3節)すなわち「イスラエルの牧者たち」は「羊を養わない」(同3節)ということについてのこと、であると思われます。

 

同様に、「わたしの牧者たち(は)が、わたしの羊を捜し求めず、かえって牧者たちは自分自身を養」(上記8節)い、「失われたものを捜」(4節)すなどのことをしないということは、「わたしの『牧者たち』」は「わたしの羊を養わない」、ということだと思います。

 

「牧者は羊を養わなければならない」(2節、その12中ほど)のに、言い換えると、「牧者は羊を養う者である」のに、「わたしの牧者たちは、・・・わたしの羊を養わない」(上記8節)ので、『牧者』とは言えない者たちである、と言うことができると思います。

 

『牧者がいない』、というのは、「わたしの『牧者たち』」は『牧者』とは言えない者たちである、ということを意味していると思います。

 

ちなみに、「牧者たちは自分自身を養い」(上記8節)というのは、3節(その12前半)の、「あなたがた(すなわち、イスラエルの牧者たち)は脂肪を食べ、羊の毛を身にまとい、肥えた羊をほふる・・・」、のことを言っているのではないかと思われます。

 

その14、に続きます。