『新改訳聖書』第3版のエレミヤ書50章5節(その7第2段落)に書かれていることが、エズラ記の時代に捕囚の民がバビロンから帰還したときのことではない、と言えるので、50章4節に書かれていること、すなわち、「その日、その時、・・・イスラエルの民もユダの民も共に来て、泣きながら歩み、その神、主を、尋ね求める」、というのも、そうなります。
つまり、50章4節に書かれていることも、エズラ記の時代に捕囚の民がバビロンから帰還したときのことではない、ということです。「その7」をご参照ください。
エレミヤ書50章6節と7節に、次のように書かれています。
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6節
わたしの民は、迷った羊の群れであった。その牧者が彼らを迷わせ、山々へ連れ去った。彼らは山から丘へと行(ゆ)き巡って、休み場を忘れてしまった。
7節
彼らを見つける者はみな彼らを食らい、敵は『私たちには罪がない。彼らが、正しい牧場(まきば)である主、彼らの先祖の望みであった主に、罪を犯したためだ』と言った。
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エレミヤ書50章4節と5節(いずれも、その7第2段落)に書かれていることは、3節からの文脈からすると、イスラエルの民とユダの民がバビロンから逃げ去った『後(あと)』のことであると考えられます。
これに対して、上記50章6節と7節に書かれていることは、「わたしの民」がバビロンから逃げ去る『前』のことである、と言うことができます。
上記6節2行目の「・・・山々・・・」には脚注があり、その脚注は「エゼ三四・六」となっています。
エゼキエル書34章6節は、次のようになっています。
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6節
わたしの羊はすべての山々やすべての高い丘をさまよい、わたしの羊は地の全面に散らされた。尋ねる者もなく、捜す者もない。
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1行目から、「わたしの羊はすべての山々やすべての高い丘をさまよい、わたしの羊は地の全面に散らされた。・・・」とあります。
エゼキエル書34章6節の、「わたしの羊はすべての山々やすべての高い丘をさまよい」が、上記エレミヤ書50章6節の、「わたしの民は、迷った羊の群れであった。その牧者が彼らを迷わせ、山々へ連れ去った。彼らは山から丘へと行(ゆ)き巡っ・・・た」、と似ています。
エゼキエル書の「わたしの羊」は「さまよ(っ)・・・た」と、エレミヤ書の「わたしの民は迷った羊の群れであった」、とが似ています。
「迷った羊の群れ」は、「迷った」ので「さまよった」、と考えることができます。
エゼキエル書34章3節と4節に、次のように書かれています。
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3節
あなたがたは脂肪を食べ、羊の毛を身にまとい、肥えた羊をほふるが、羊を養わない。
4節
弱った羊を強めず、病気のものをいやさず、傷ついたものを包まず、迷い出たものを連れ戻さず、失われたものを捜さず、かえって力ずくと暴力で彼らを支配した。
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4節2行目に、「・・・迷い出たものを連れ戻さず、・・・」とあります。
「迷い出たもの」というのは、「迷い出た『羊』」のことです。
『羊』の中には、「迷い出たもの」がいる、ということが分かります。
上記エレミヤ書50章6節の、「わたしの民は、迷った羊の群れであった」というのは、エゼキエル書34章4節の、「迷い出たもの」、すなわち「迷い出た『羊』」のことを言っているのではないでしょうか。
その9、に続きます。