「その6」は、「2024-03-05」です。
『新改訳聖書』第3版のエレミヤ書50章4節と5節(いずれも、その6冒頭)に、次のように書かれています。
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4節
その日、その時、―主の御(み)告げ―
イスラエルの民もユダの民も共に来て、泣きながら歩み、その神、主を、尋ね求める。
5節
彼らはシオンを求め、その道に顔を向けて、『来たれ。忘れられることのないとこしえの契約によって、主に連なろう』と言う。
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5節の「彼ら」というのは、4節の「イスラエルの民」と「ユダの民」のこと、と言うことができます。
「彼らは・・・言う。」(5節)は、「『イスラエルの民とユダの民』は・・・言う。」となります。
5節1行目から、「・・・『来たれ。忘れられることのないとこしえの契約によって、主に連なろう』・・・」とあります。
「とこしえの契約」には脚注があり、その脚注は「エレ三二・四〇」となっています。
エレミヤ書32章40節は次のようになっています。
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40節
わたしが彼らから離れず、彼らを幸福にするため、彼らととこしえの契約を結ぶ。わたしは、彼らがわたしから去らないようにわたしに対する恐れを彼らの心に与える。
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「彼ら」というのは、さしあたり、エレミヤ書32章30節の「イスラエルの子らとユダの子ら」のこと、及び32節に書かれている人々のことと考えられます。
32節に書かれている人々というのは、「・・・イスラエルの子らとユダの子ら・・・、すなわち彼ら自身と、その王、首長、祭司、預言者・・・、またユダの人もエルサレムの住民も・・・」のこと、と考えられます。『「契約」について その1』(2024-03-16)をご参照ください。
上記40節1行目から、「わたしが彼らから離れず、彼らを幸福にするため、彼らととこしえの契約を結ぶ。・・・」とあります。
この40節の「とこしえの契約」というのは、いわゆる「旧約」のことではない、と言うことができます。『「契約」について その2』(2024-03-19)をご参照ください。
エレミヤ書32章40節(上記)の「とこしえの契約」が、同書50章5節(上記第2段落)の「とこしえの契約」と同じものであるとすると、50章5節の「とこしえの契約」は、いわゆる「旧約」のことではない、ということになります。
そして今のところ、32章40節の「とこしえの契約」と、50章5節の「とこしえの契約」は同じものである、と考えています。
違うものであることが分かった場合には、もう一度考えます。
32章40節の「とこしえの契約」と50章5節の「とこしえの契約」が同じものであるとすると、50章5節に書かれていることは、エズラ記の時代に捕囚の民がバビロンから帰還したときのことではない、ということになります。『「契約」について その5』(2024-03-26)をご参照ください。
50章5節(上記第2段落)に書かれていることが、エズラ記の時代に捕囚の民がバビロンから帰還したときのことではないとすると、50章4節に書かれていることもそうなります。
50章5節の「彼ら」というのは、同章4節の「イスラエルの民」と「ユダの民」のこと、と言うことができるからです。
つまり、5節の「彼ら」と、4節の「イスラエルの民」および「ユダの民」とは同じ人々だからです。
5節の「彼ら」と4節の「イスラエルの民」および「ユダの民」とは同じ人々だから、50章4節に書かれていることも、エズラ記の時代に捕囚の民がバビロンから帰還したときのことではない、ということです。
その8、に続きます。