『新改訳聖書』第3版のエレミヤ書50章17節(その14中ほど、もしくは前半)に、次のように書かれています。
***
17節
イスラエルは雄獅子に散らされた羊。先にはアッシリヤの王がこれを食らったが、今度はついに、バビロンの王ネブカデレザルがその骨まで食らった。
***
イスラエルは『散らされた』、ということが言われています。
人々が、例えば『一国』に行(ゆ)く場合に、人々は『散らされる』と言えるでしょうか。
言えないと思います。
いくつかの『国々』に行(ゆ)く場合には、言えます。
いくつかの『国々』に行(ゆ)く場合には、人々は『国々』に『散らされる』、と言うことができます。
『一国』に行(ゆ)く場合は、『国々』に『散らされる』、と言うことはできません。
列王記の時代、ユダの王ゼデキヤの第十一年に、ユダの民とエルサレムの住民が捕らえ移されたときのバビロンの王は、ネブカデ『ネ』ザルでした。
このときは、人々はバビロン『一国』に捕らえ移されました。
つまり、このときは、人々は『国々』に『散らされた』のではない、ということです。
言い換えると、ネブカデ『ネ』ザルの時代には、イスラエルは『国々』に『散らされた』のではない、ということです。
しかし、ネブカデ『レ』ザルの時代では、エレミヤ書50章17節(上記冒頭)にあるように、イスラエルは『散らされた』ということが言われています。
エゼキエル書6章8節に、次のように書かれています。
***
8節
しかし、わたしは、あなたがたのある者を残しておく。わたしがあなたがたを国々に追い散らすとき、剣をのがれた者たちを諸国の民の中におらせる。
***
1行目から、「・・・わたしがあなたがたを『国々に追い散らす』とき、剣をのがれた者たちを諸国の民の中におらせる。」とあります。
『国々に追い散らす』、ということが言われています。
「わたし」というのは、エゼキエル書6章3節の記述から、「神である主」のこと、と言うことができると思います。
エゼキエル書6章2節と3節に、次のように書かれています。
***
2節
「人の子よ。あなたの顔をイスラエルの山々に向け、それらに向かって預言して、
3節
言え。
イスラエルの山々よ。*神である主のことばを聞け。神である主は、山や丘、谷川や谷に向かってこう仰せられる。見よ。わたしは剣をあなたがたにもたらし、あなたがたの高き所を打ちこわす。
* エゼ六・三、一一「神」の子音字は「主」
***
3節2行目からの、「・・・神である主は、山や丘、谷川や谷に向かってこう仰せられる。見よ。わたしは剣をあなたがたにもたらし、あなたがたの高き所を打ちこわす。」ということばから、「わたし」というのは「神である主」のことである、と言うことができると思います。
また、「あなたがた」というのは、3節2行目の「・・・山や丘、谷川や谷・・・」のことであると思われます。
2節の冒頭に、左カギ(「)があります。
これの相手である右カギ(」)は、6章10節にあります。
そうすると、3節から10節までの「わたし」というのは、「神である主」のこと、と言うことができると思います。
したがって、上記8節の「わたし」というのも、「神である主」のことになります。
その18、に続きます。