『新改訳聖書』第3版のエゼキエル書6章8節(その17中ほど)から10節までに、次のように書かれています。
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8節
しかし、わたしは、あなたがたのある者を残しておく。わたしがあなたがたを国々に追い散らすとき、剣をのがれた者たちを諸国の民の中におらせる。
9節
あなたがたのうちののがれた者たちは、とりこになって行(い)く国々で、わたしを思い出そう。それは、わたしから離れる彼らの姦淫の心と、偶像を慕う彼らの姦淫の目をわたしが打ち砕くからだ。彼らが自分たちのあらゆる忌みきらうべきことをしたその悪をみずからいとうようになるとき、
10節
彼らは、わたしが主であること、また、わたしがゆえもなくこのわざわいを彼らに下すと言ったのではないことを知ろう。」
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8節1行目から、「・・・わたしがあなたがたを国々に追い散らすとき、剣をのがれた者たちを諸国の民の中におらせる。」とあります。
「わたし」というのは、「神である主」のこと、と言うことができると思います。「その17」後半をご参照ください。
また、「あなたがた」というのは、エゼキエル書6章3節(その18冒頭)3行目の、「・・・山や丘、谷川や谷・・・」のことである、と言うことができます。「その17」後半と「その18」をご参照ください。
「わたしがあなたがたを国々に追い散らす」(8節1行目から)は、「神である主」が「山や丘、谷川や谷」を国々に追い散らす、ということになります。
「山や丘、谷川や谷」を国々に追い散らす、ということから、「山や丘、谷川や谷」というのは、文字通りのものではなく、「たとえ」である、と言うことができると思います。
それは『人』のたとえである、と言うことができます。
エゼキエル書6章3節(その18冒頭)の、「・・・わたしは剣をあなたがた(すなわち、山や丘、谷川や谷)にもたら・・・す」や、同章4節(その18中ほど、もしくは後半)の、「・・・あなたがた(すなわち、山や丘、谷川や谷)のうちの刺し殺された者ども・・・」といったことばからも、「山や丘、谷川や谷」というのは、文字通りのものではなく、『人』の「たとえ」である、と言うことができると思います。
このように、「山や丘、谷川や谷」は『人』をたとえたものである、と言うことができると思います。
そして6章3節に、「人の子」が「イスラエルの山々よ」と呼びかけてから、「神である主は、『山や丘、谷川や谷』に向かってこう仰せられる」、とあります。
この3節の記述から、「イスラエルの山々」に『山や丘、谷川や谷』があるのではないか、という考えが浮かびます。
『山や丘、谷川や谷』は「イスラエルの山々」にあるのではないでしょうか。
3節内の文脈からすると、『山や丘、谷川や谷』は「イスラエルの山々」にある、と考えられます。
また、そのように読むことができます。
『人』をたとえたものである『山や丘、谷川や谷』が、「イスラエルの山々」にあるとすると、それは『イスラエル人』をたとえたものである、と考えることができます。
『イスラエル人』をたとえたものではないとすると、誰をたとえたものか、ということになります。
『山や丘、谷川や谷』が『イスラエル人』をたとえたものであるとすると、「神である主」は『イスラエル人』を「国々に追い散らす」(上記冒頭8節)、ということになります。
「国々に追い散ら」されるのは、「神である主」が「わたしは、あなたがたのある者を残しておく」(8節)と言われた者たちであり、「剣をのがれた者たち」(同)である、と言うことができると思います。
その20、に続きます。