エレミヤ書50章について その54

『新改訳聖書』第3版のエレミヤ書50章23節(その52冒頭)に、次のように書かれています。
***
23節
  万国を打った鉄槌(てっつい)は、
  どうして折られ、砕かれたのか。
  バビロンよ。
  どうして国々の恐怖となったのか。
***

 

「万国を打った鉄槌(てっつい)は、どうして折られ、砕かれたのか。バビロンよ。どうして国々の恐怖となったのか。」とあります。

 

「万国を打った鉄槌(てっつい)(は)が・・・折られ、砕かれ」、また、バビロンが「国々の恐怖となった」のは、50章24節(その52冒頭)に書かれていることがあったからであると思われます。

 

エレミヤ書50章24節(その52冒頭)は、次のようになっています。
***
24節
  バビロンよ。
  わたしがおまえにわなをかけ、
  おまえは捕らえられた。
  おまえはそれを知らなかった。
  おまえは見つけられてつかまえられた。
  おまえが主に争いをしかけたからだ。
***

 

「万国を打った鉄槌(てっつい)(は)が・・・折られ、砕かれ」(上記冒頭23節)、また、バビロンが「国々の恐怖となった」(同)のは、「わたしがおまえにわなをかけ、おまえは捕らえら」(24節2行目から)れ、「おまえは見つけられてつかまえられた」(24節下から2行目)からである、と思われます。

 

そして、「わたしがおまえにわなをかけ、おまえは捕らえら」(24節2行目から)れ、「おまえ(は)が見つけられてつかまえられた」(同)のは、「おまえが主に争いをしかけたからだ」(同)、という文脈になると思います。

 

言い換えると、「おまえが主に争いをしかけたから」、「わたし(が)はおまえにわなをかけ、おまえは捕らえら」れ、「おまえは見つけられてつかまえられた」、となります。

 

「おまえが主に争いをしかけた」、とあります。

 

『わな』(その52、下から3段落目)と同様、これについても、「争いをしかけた」というのがどのようなことなのか分からないので、もう少し考えてから述べようと思います。

 

「おまえは捕らえられた」、すなわち、「バビロンは捕らえられた」ということばから、エレミヤ書50章2節が思い浮かびます。

 

エレミヤ書50章2節(その5冒頭)は、次のようになっています。
***
2節
  「諸国の民の間に告げ、旗を掲げて知らせよ。
  隠さずに言え。
  『バビロンは捕らえられた。
  ベルははずかしめられ、
  メロダクは砕かれた。
  その像ははずかしめられ、
  その偶像は砕かれた。』
***

 

3行目に、「・・・バビロンは捕らえられた。」とあります。

 

エレミヤ書50章24節(上記)に書かれていることと、同じことが書かれています。

 

また、「メロダクは砕かれた」(下から3行目)と「その偶像は砕かれた」(最後の行)の「砕かれた」は、上記冒頭50章23節にもあります。

 

23節1行目から、「万国を打った鉄槌(てっつい)は、どうして・・・『砕かれた』のか。・・・」とあります。

 

上記2節では、『砕かれた』のは「メロダク」であり、「その偶像」です。

 

それに対して、上記冒頭23節では、『砕かれた』のは「万国を打った鉄槌(てっつい)」です。

 

「万国を打った鉄槌(てっつい)」というのは、23節の記述から、「バビロン」のこと、と言うことができます。

 

「万国を打った鉄槌(てっつい)は、どうして・・・『砕かれた』のか」(23節1行目から)は、言い換えると、「『バビロン』は、どうして・・・『砕かれた』のか」、となります。

 

「メロダクは砕かれた」(2節下から3行目)と「その偶像は砕かれた」(2節最後の行)というのは、『バビロン』が『砕かれた』ことの内容として読むことができると思います。

 

つまり、『バビロン』が『砕かれた』というのは、「メロダクは砕かれた」や「その偶像は砕かれた」ことを意味している、ということです。

 

エレミヤ書50章2節(上記)に書かれていることが、同章23節と24節に書かれていることと同じときのことだとすると、50章2節(上記)に書かれていることは、「わたしがおまえにわなをかけ、おまえは捕らえら」(24節2行目から)れたからである、となります。

 

わたしは、エレミヤ書50章2節に書かれていることは、同章23節と24節に書かれていることと同じときのことである、と思います。

 

いかがでしょうか、どのように思われますか。

 

その55、に続きます。

エレミヤ書50章について その53

『新改訳聖書』第3版のエレミヤ書50章18節と19節(いずれも、その51冒頭)に次のように書かれています。
***
18節
それゆえ、イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。「見よ。わたしはアッシリヤの王を罰したように、バビロンの王とその国を罰する。
19節
わたしはイスラエルをその牧場(まきば)に帰らせる。彼はカルメルとバシャンで草を食べ、エフライムの山とギルアデで、その願いは満たされる。
***

 

この18節と19節の文脈を考えると、「わたし」が「バビロンの王とその国を罰する」(18節)とき、「わたしはイスラエルをその牧場(まきば)に帰らせる」(19節)、のではないかと思われます。

 

「バビロンの王とその国」(18節)は罰せられる、ということが言われています。

 

「バビロンの王とその国」(18節)が罰せられるとき、50章21節から23節まで(その52冒頭)に書かれている状況になると考えられます。

 

それはまた、バビロンが滅びるときの状況でもある、と言うことができると思います。

 

このように、バビロンは罰せられて滅びることになりますが、その一方で、イスラエルはバビロンから逃げ、「その牧場(まきば)に帰」って、「カルメルとバシャンで草を食べ」る、という状況になると思われます。

 

エレミヤ書50章19節(上記冒頭)と20節(その27冒頭)に次のように書かれています。
***
19節
わたしはイスラエルをその牧場(まきば)に帰らせる。彼はカルメルとバシャンで草を食べ、エフライムの山とギルアデで、その願いは満たされる。
20節
  その日、その時、―主の御(み)告げ―イスラエ
  ルの咎は見つけようとしても、それはなく、ユダの罪

  も見つけることはできない。わたしが残す者の罪を、

  わたしが赦すからだ。」
***

 

この19節と20節の文脈を考えると、「わたし(は)がイスラエルをその牧場(まきば)に帰らせる」(19節)ときには、「イスラエルの咎は見つけようとしても、それはなく、ユダの罪も見つけることはできない」のではないか、と思われます。

 

そして、「わたしが残す者の罪を、わたしが赦すから」(20節)、「イスラエルの咎は見つけようとしても、それはなく、ユダの罪も見つけることはできない」、という文脈になる、と言うことができます。

 

つまり、バビロンが罰せられて滅びることと、イスラエルが「その牧場(まきば)に帰」り、「イスラエルの咎は見つけようとしても、それはなく、ユダの罪も見つけることはできない」、ということとは、『同じとき』のことか、もしくは、ほぼ同じときのことではないか、ということです。

 

上記50章20節3行目から、「・・・わたしが残す者の罪を、わたしが赦すからだ。」とあります。

 

「わたしが残す者の罪を、わたしが赦す」というのは、『贖う』、ということではないでしょうか。

 

「その52」冒頭で、エレミヤ書50章21節から24節までを引用しましたが、それに続いて、「その45」(2024-08-17)前半で引用した50章25節から27節までの記述があります。

 

21節から24節までと同様、25節から27節までに書かれていることも、バビロンが罰せられて滅びるときの状況である、と言うことができると思います。

 

50章27節(その45前半)の、「彼らの日、その刑罰の時が来たからだ。」ということばからも、バビロンが罰せられるときのことである、と言うことができると思います。

 

エレミヤ書50章21節から27節までに書かれていることは、バビロンが罰せられて滅びるときのことである、と言うことができると思います。

 

しかしそれは、カルデヤ人の王ベルシャツァルが殺され(ダニエル5:30)てバビロンが滅んだ時のことではない、と言うことができます。

 

その54、に続きます。

エレミヤ書50章について その52

『新改訳聖書』第3版のエレミヤ書50章21節から24節までに、次のように書かれています。
***
21節
  「メラタイムの地、ペコデの住民のところに攻め上れ。
  彼らを追って、殺し、彼らを聖絶せよ。
  ―主の御(み)告げ―
  すべて、わたしがあなたに命じたとおりに、行え。」
22節
  「国中には戦いの声、大いなる破滅。
23節
  万国を打った鉄槌(てっつい)は、
  どうして折られ、砕かれたのか。
  バビロンよ。
  どうして国々の恐怖となったのか。
24節
  バビロンよ。
  わたしがおまえにわなをかけ、
  おまえは捕らえられた。
  おまえはそれを知らなかった。
  おまえは見つけられてつかまえられた。
  おまえが主に争いをしかけたからだ。
***

 

21節1行目の、「メラタイムの地」というのは、調べてみると、バビロンの中にある地のようです。

 

仮に、バビロンの中にある地だとすると、「メラタイムの地・・・に攻め上れ。彼らを追って、殺し、彼らを聖絶せよ。」と言われていることは、ヘロドトスの『歴史』(その47)からは読み取ることができません。

 

つまり、上記50章21節に書かれていることは、「メディア・ペルシャ帝国がバビロニア帝国を滅ぼ」(2024/1/15 19:20の、1149965208さんのご回答の第4段落、https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14291775664)したときのこと、言い換えると、カルデヤ人の王ベルシャツァルが殺され(ダニエル5:30)てバビロンが滅んだときのこと、『ではない』、ということです。「その47」から「その49」までをご参照ください。

 

上記冒頭21節最後の行に、「すべて、わたしが『あなた』に命じたとおりに、行え。」とあります。

 

『あなた』というのは、今のところ、誰を指すのか分かりません。

 

おそらく、「その憤りの武器」(50章25節、その45前半)のことではないか、と考えています。

 

上記冒頭22節に、「国中には『戦い』の声、大いなる破滅。」とあります。

 

ヘロドトスの『歴史』(その47)、および、ウィキペディアの『オピスの戦い』(その49)の記述からすると、『戦闘』は無かった、と言うことができます。

 

したがって、『戦い』は無かった、と言うことができるので、エレミヤ書50章22節に書かれていることは、「メディア・ペルシャ帝国がバビロニア帝国を滅ぼ」したときのこと、言い換えると、カルデヤ人の王ベルシャツァルが殺されてバビロンが滅んだときのこと、『ではない』、と言うことができます。

 

22節(上記冒頭)にはまた、「大いなる破滅」とあります。

 

これは、23節の、「万国を打った鉄槌(てっつい)は・・・折られ、砕かれた」、のことを言っているものと思われます。

 

つまり、「大いなる破滅」というのは、「万国を打った鉄槌(てっつい)(は)が・・・折られ、砕かれた」ことを言っている、ということです。

 

「万国を打った鉄槌(てっつい)」というのは、23節の記述から、「バビロン」のこと、と言うことができます。

 

「バビロン」が「鉄槌(てっつい)」にたとえられています。

 

23節(上記冒頭)3行目から、「バビロンよ。どうして国々の恐怖となったのか。」とあります。

 

バビロンは「国々の恐怖となった」、ということが分かります。

 

これは、「万国を打った鉄槌(てっつい)(は)が・・・折られ、砕かれた」(23節)という「大いなる破滅」(22節)が、『恐ろしいもの』である、ということを思わせます。

 

エレミヤ書51章41節には、次のように書かれています。
***
41節
  ああ、バビロンは攻め取られ、
  全地の栄誉となっていた者は捕らえられた。
  ああ、バビロンは国々の間で恐怖となった。
***

 

最後の行に、「ああ、バビロンは国々の間で恐怖となった。」とあります。

 

51章37節にも、「バビロンは・・・恐怖・・・となる。」とあります。

 

バビロンが恐怖となったのは、エレミヤ書51章25節から40節までに書かれていることがバビロンに起こったからである、と考えられます。

 

また、エレミヤ書50章9節から13節までに書かれていることがバビロンに起こったからである、と考えられます。

 

エレミヤ書50章24節(上記冒頭)については、『わな』というのがどのようなものなのか、今のところ分からないので、もう少し考えてから述べようと思います。

 

上記冒頭エレミヤ書50章21節から23節までに書かれていることは、同章18節からの文脈より、バビロンが『罰せられる』ときのことと考えられますが、それはまた、バビロンが滅ぼされるときの状況でもある、と言うことができると思います。

 

その53、に続きます。

エレミヤ書50章について その51

『新改訳聖書』第3版のエレミヤ書50章16節(その50冒頭)から19節(その26冒頭)までに、次のように書かれています。
***
16節
  種を蒔く者や、刈り入れの時にかまを取る者を、
  バビロンから切り取れ。
  しいたげる者の剣を避けて、
  人はおのおの自分の民に帰り、
  自分の国へ逃げて行(い)く。」
17節
イスラエルは雄獅子に散らされた羊。先にはアッシリヤの王がこれを食らったが、今度はついに、バビロンの王ネブカデレザルがその骨まで食らった。
18節
それゆえ、イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。「見よ。わたしはアッシリヤの王を罰したように、バビロンの王とその国を罰する。
19節
わたしはイスラエルをその牧場(まきば)に帰らせる。彼はカルメルとバシャンで草を食べ、エフライムの山とギルアデで、その願いは満たされる。
***

 

16節3行目から、「しいたげる者の剣を避けて、人はおのおの自分の民に帰り、自分の国へ逃げて行(い)く。」とあります。

 

そして19節1行目に、「わたしはイスラエルをその牧場(まきば)に帰らせる。・・・」とあります。

 

イスラエルは「逃げて行(い)」(16節)って、「その牧場(まきば)に帰」る(19節)、のではないかと思われます。

 

それらの節の間に、18節2行目からの、「・・・見よ。わたしは・・・バビロンの王とその国を罰する。」ということばがあります。

 

「逃げる」ということについては、50章3節(その5冒頭)と8節(その14冒頭)に、その記述があります。

 

3節の場合、「北から一つの国がここに攻め上り、この地を荒れ果てさせたから」、「逃げ去った」、と考えることができると思います。

 

また、8節の場合は、8節と9節の文脈から、「わたしが、大国の集団を奮い立たせて、北の地からバビロンに攻め上らせ」(9節)、「彼らはこれに向かって陣ぞなえをし、これを攻め取る」(同)から、「逃げ・・・よ」(8節)と言われている、と考えることができると思います。

 

「北から一つの国がここ(すなわち、バビロン)に攻め上り」(3節)と、「わたしが、大国の集団を・・・北の地からバビロンに攻め上らせる」(9節)とが、非常によく似ていることから、両節は同じときのことを言っているのではないか、という考えが浮かびます。

 

ほぼ間違いなく、同じときのことを言っていると思います。

 

8節と9節に続く10節から15節までには、バビロンが滅びるときのことについて書かれている、と言うことができると思います。

 

つまり、「逃げる」というのは、バビロンが滅びるときのことである、ということです。

 

そして上記冒頭16節に、「逃げて行(い)く」という記述があり、18節(上記冒頭)2行目から、「わたしは・・・バビロンの王とその国を罰する」、ということばがあります。

 

17節には、「わたし(は)が・・・バビロンの王とその国を罰する」のは、何ゆえであるのかが書かれています。

 

すなわち、「バビロンの王とその国を罰する」のは、「バビロンの王ネブカデレザルがその(すなわち、イスラエルの)骨まで食らった」(50章)ゆえである、ということです。

 

これらの節の文脈を考えると、「わたし(は)が・・・バビロンの王とその国を罰する」(18節)ときに、「人はおのおの・・・自分の国へ逃げて行(い)」(16節)き、「わたしはイスラエルをその牧場(まきば)に帰らせる」(19節)のではないか、と思われます。

 

そして、「逃げる」というのは、バビロンが滅びるときのことと考えられるので、「その国を罰する」というのも、バビロンが滅びるときのことである、と考えることができると思います。

 

その52、に続きます。

エレミヤ書50章について その50

『新改訳聖書』第3版のエレミヤ書50章16節(その37冒頭)に、次のように書かれています。
***
16節
  種を蒔く者や、刈り入れの時にかまを取る者を、
  バビロンから切り取れ。
  しいたげる者の剣を避けて、
  人はおのおの自分の民に帰り、
  自分の国へ逃げて行(い)く。」
***

 

3行目に、「しいたげる者の剣を避けて、」とあります。

 

「しいたげる者」というのは、誰のことであると考えられるでしょうか。

 

エレミヤ書50章33節に、次のように書かれています。
***
33節
万軍の主はこう仰せられる。「イスラエルの民とユダの民は、共にしいたげられている。彼らをとりこにした者はみな、彼らを捕らえて解放しようとはしない。」
***

 

1行目から、「・・・イスラエルの民とユダの民は、共に『しいたげられている』。・・・」とあります。

 

続いて、「彼らをとりこにした者はみな、彼らを捕らえて解放しようとはしない。」とあります。

 

「彼らをとりこにした者」がイスラエルの民とユダの民を『しいたげている』、と読むことができると思います。

 

「彼らをとりこにした者」とは、誰のことでしょうか。

 

エレミヤ書50章33節(上記)に続いて、34節に、次のように書かれています。
***
34節
彼らを贖(あがな)う方は強く、その名は万軍の主。主は、確かに彼らの訴えを支持し、この国をいこわせるが、バビロンの住民を震え上がらせる。
***

 

1行目の「彼ら」というのは、上記33節の「彼ら」と同じで、「イスラエルの民とユダの民」のこと、と言うことができます。

 

34節2行目の「彼ら」も同様です。

 

1行目から、「・・・主は、確かに彼らの訴えを支持し、この国をいこわせるが、バビロンの住民を震え上がらせる。」とあります。

 

33節との文脈から、「主(は)が・・・彼らの訴えを支持」するのは、「彼ら」、すなわち、「イスラエルの民とユダの民」が「しいたげられている」からであり、「彼らをとりこにした者はみな、彼らを捕らえて解放しようとはしない」からではないか、と考えることができると思います。

 

「主は・・・彼らの訴えを支持し、この国をいこわせる」の「この国」というのは、主がその訴えを支持する「イスラエルの民とユダの民」の国、すなわち、「イスラエルの国」のこと、と言うことができると思います。

 

主は「彼ら」、すなわち、「イスラエルの民とユダの民」の訴えを支持し、「イスラエルの国」をいこわせる、ということです。

 

それに対して、「バビロンの住民」については、「震え上がらせる」、と言われています。

 

なぜ、「バビロンの住民を震え上がらせる」、のでしょうか。

 

「バビロンの住民」が「イスラエルの民とユダの民」(33節)をしいたげており、「彼ら」、すなわち、「イスラエルの民とユダの民」をとりこにし、彼らを捕らえて解放しようとはしないから、ではないでしょうか。

 

上記50章33節と34節の文脈を考えると、そのように読むことができると思います。

 

エレミヤ書50章33節と34節の記述から、上記冒頭16節の、「しいたげる者」というのは、「バビロンの住民」のことではないかと思われます。

 

上記冒頭エレミヤ書50章16節3行目に、「しいたげる者の剣を避けて、」とあるので、「しいたげる者」は剣を使う、と言うことができます。

 

剣を使う、ということからすると、「しいたげる者」というのは、「北の地からバビロンに攻め上」る「大国の集団」(50章9節)のことかもしれない、という考えが浮かびます。

 

エレミヤ書50章33節と34節(いずれも、上記)の記述が無ければ、「しいたげる者」というのは、同章9節の、「北の地からバビロンに攻め上」る「大国の集団」のことか、とも考えられるのですが、33節と34節の記述からすると、「バビロンの住民」のことではないか、というようにも考えられます。

 

大国の集団がバビロンを攻め取る(50章9節)ときに、バビロンにいる国々の民がその大国の集団によって「しいたげられる」と考えるのには、少し無理があるようにも思います。

 

「わたし」(50章9節)が、すなわち「主」(同章1節)が、「大国の集団」をバビロンに攻め上らせる(同章9節)、ということからすると、「大国の集団」は、どちらかと言うと、「彼ら(すなわち、イスラエルの民とユダの民)の訴えを支持」(50章34節)する側になる、と考えることができると思います。

 

そうすると、「しいたげる者」というのはやはり、「バビロンの住民」のことではないか、となります。

 

大国の集団がバビロンを攻めている間も、「バビロンの住民」は国々の民を「しいたげ」、そして、剣を使う、のではないかと思われます。

 

いかがでしょうか。

 

その51、に続きます。

エレミヤ書50章について その49

『新改訳聖書』第3版のエレミヤ書50章と51章には、『弓』と『矢』についての記述があります。

 

50章9節(その43前半)と14節(その43後半)、および51章3節(その42後半)と11節(その42冒頭)に『弓』と『矢』についての記述があります。

 

これらの記述を読むと、バビロンが滅ぼされるときには、『弓』と『矢』が用いられる、と言うことができます。

 

ヘロドトスの『歴史』には、『弓』と『矢』についての記述はありません。

 

ペルシャ軍は、仮に『弓』と『矢』を持っていたとしても、それらを使うことはなかった、と思われます。

 

バビロン側にとっては、『不意討』だったのです。

 

『弓』と『矢』を使うまでもなく、バビロン側は捕まったと想像されます。

 

「その48」で述べたように、ペルシャ軍がバビロンに突入したとき戦闘はなかったと考えられます。「その48」前半をご参照ください。

 

ウィキペディアの『オピスの戦い』の冒頭に、次のように書かれています。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%94%E3%82%B9%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
***
オピスの戦い(Battle of Opis)は、紀元前539年9月に行われた、メソポタミア侵攻時におけるキュロス2世率いるアケメネス朝(ペルシア)軍とナボニドゥス率いる新バビロニア軍の間の主要な会戦である。当時、新バビロニアは西アジアにおいて、まだペルシアの傘下に入っていない最後の大国であった。戦いは新バビロニアの首都バビロンの北、川沿いの戦略的要衝都市オピスの中または近くで行われた。戦闘は、新バビロニア軍の決定的な敗北に終わった。数日後、都市シッパルはペルシア軍に降伏。その後、キュロスの軍は、戦闘を経ずにバビロンに入城した。続いてキュロスは、新バビロニア及びその支配領域の王への就任を宣言。こうしてバビロンの独立は終焉し、新バビロニアはペルシアへと組み込まれた。
***

 

6行目から、「・・・戦いは新バビロニアの首都バビロンの北、川沿いの戦略的要衝(ようしょう)都市オピスの中または近くで行われた。戦闘は、新バビロニア軍の決定的な敗北に終わった。数日後、都市シッパルはペルシア軍に降伏。その後、キュロスの軍は、戦闘を経ずにバビロンに入城した。・・・」とあります。

 

ウィキペディアによりますと、「キュロスの軍は、『戦闘を経ずに』バビロンに入城した」、ということです。

 

ペルシャ軍がバビロンに突入したとき戦闘はなかった、と考えてよいのではないでしょうか。

 

戦闘がなかったとすると、『弓』と『矢』が用いられることもなかった、のではないかと思われます。

 

エレミヤ書51章3節(その42後半)には、次のように書かれています。
***
3節
  射手(いて)には弓を張らせ、
  よろいを着けてこれを襲わせよ。
  そこの若い男を惜しむことなく、
  その全軍を聖絶せよ。
***

 

ヘロドトスの『歴史』からは、このような状況を読み取ることができません。

 

つまり、『弓』と『矢』についての記述は、「メディア・ペルシャ帝国がバビロニア帝国を滅ぼ」(2024/1/15 19:20の、1149965208さんのご回答の第4段落、『新改訳聖書』第3版のダニエル書5章30節と31節に、次のように書か... - Yahoo!知恵袋)したときのこと、言い換えると、カルデヤ人の王ベルシャツァルが殺され(ダニエル5:30)てバビロンが滅んだときのこと、『ではない』、ということです。

 

エレミヤ書50章26節(その48冒頭)に書かれていることは、「『四方から』そこに攻め入れ」ということばから、「メディア・ペルシャ帝国がバビロニア帝国を滅ぼ」したときのこと、言い換えると、カルデヤ人の王ベルシャツァルが殺されてバビロンが滅んだときのこと、『ではない』、と言うことができます。「その47」終わりのほうをご参照ください。

 

「その48」冒頭エレミヤ書50章26節と27節に書かれていることは、「彼らの日、その刑罰の時」(27節)のことである、と言うことができると思います。

 

そうすると、26節が、「メディア・ペルシャ帝国がバビロニア帝国を滅ぼ」したときのこと、言い換えると、カルデヤ人の王ベルシャツァルが殺されてバビロンが滅んだときのこと、『ではない』、ということになると、27節もそうなります。

 

26節と同じく、27節に書かれていることは、「彼らの日、その刑罰の時」(27節)のことと言えるからです。

 

ヘロドトスの『歴史』の記述と照らし合わせると、エレミヤ書50章と51章の、バビロンが滅ぼされることについての記述は、「メディア・ペルシャ帝国がバビロニア帝国を滅ぼ」(2024/1/15 19:20の、1149965208さんのご回答の第4段落)したときのこと、言い換えると、カルデヤ人の王ベルシャツァルが殺され(ダニエル5:30)てバビロンが滅んだときのこと、『ではない』、と考えられます。

 

いかがでしょうか、どのように思われますか。

 

その50、に続きます。

エレミヤ書50章について その48

『新改訳聖書』第3版のエレミヤ書50章26節と27節(その47後半)に、次のように書かれています。
***
26節
  四方からそこに攻め入れ。その穀物倉を開け。
  これを麦束のように積み上げ、
  これを聖絶して、何一つ残すな。
27節
  その雄牛をみな滅ぼせ。ほふり場に下らせよ。
  ああ、哀れな彼ら。
  彼らの日、その刑罰の時が来たからだ。」
***

 

ヘロドトス『歴史』(その47)の第2段落第五文に、「かりにバビロン側がこうしたキュロスの行動についてあらかじめ情報を得るとか、あるいはそれに気付いていたならば、彼らはペルシア軍の侵入を見逃しておいて、それから徹底的殲滅(せんめつ)を加えることができたであろう。」とあります。

 

「かりにバビロン側がこうしたキュロスの行動についてあらかじめ情報を得るとか、あるいはそれに気付いていたならば」という言葉から、バビロン側はキュロスの行動についてあらかじめ情報を得ることはなく、あるいはそれに気付いていなかった、と言うことができます。

 

だから、「ペルシア軍の侵入は彼らにとっては全くの不意討であった」(第七文)、ということになると思います。

 

また、「・・・中央部に住むものたちはそのことを知らず、たまたまその日は祭の日に当たっていたので、その時刻には踊り狂い飲めや歌えの大騒ぎの最中で」(第八文)あった、ということから、バビロン側は戦闘態勢を整えてはいなかった、と考えられます。

 

つまり、ペルシャ軍がバビロンに突入したとき戦闘はなかった、と考えられるのです。

 

「敵の手に落ちた」(第八文と第九文)とありますが、それは、戦闘があって落ちたのではなく、丸腰のまま降参した、ということではないかと思われます。

 

「全くの不意討であった」(第七文)ということや、「踊り狂い飲めや歌えの大騒ぎの最中」(第八文)であった、ということからすると、武器は持っていなかったと考えられるのです。

 

「彼らにとっては全くの不意討であった」(第七文)ということなので、戦いの『心の』準備はできていなかった、と言うことができると思います。

 

このように、戦闘はなかった、と考えられます。

 

上記冒頭エレミヤ書50章26節と27節に書かれていることが、「メディア・ペルシャ帝国がバビロニア帝国を滅ぼ」(2024/1/15 19:20の、1149965208さんのご回答の第4段落、『新改訳聖書』第3版のダニエル書5章30節と31節に、次のように書か... - Yahoo!知恵袋)したときのことであるとすると、そのときペルシャ軍は「これを聖絶して、何一つ残」さず、「その雄牛をみな滅ぼ」した、ということになります。

 

岩波文庫 ヘロドトス『歴史』上 松平千秋訳(1981年2月10日 第13刷発行)の「一九二」(143ページ)に、次のように書かれています。
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一九二  バビロンの国力がいかに強大であるかは、これからいろいろな事例をあげて明らかにするつもりであるが、特に先ず次のことでもよく知られよう。ペルシア大王および麾下の軍隊を養うために、普通の貢税のほか、ペルシアの支配の及ぶ全域が、分担地区に分割されている。そして一年の十二カ月の内四カ月分は、バビロンの地域が王の必要物資を賄い、残りの八カ月分をバビロン以外の全アジア地域が受持つのである。・・・
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1行目に、「『バビロンの国力』がいかに強大であるか・・・」とあります。

 

また2行目から、「・・・ペルシア大王および麾下(きか)の軍隊を養うために、普通の貢税(こうぜい・ぐぜい)のほか、ペルシアの支配の及ぶ全域が、分担地区に分割されている。・・・」とあります。

 

「麾下(きか)の軍隊」というのは、ある人の指揮下にある軍隊のことです。

 

ここでは、ペルシア大王の指揮下にある軍隊のこと、となります。

 

「貢税(こうぜい・ぐぜい)」というのは、物品で納める税のことです。

 

つまり、「ペルシア大王および麾下(きか)の軍隊を養う」ために、物品で納める税がある、ということです。

 

この税はだれが負担するのでしょうか。

 

「一九二」の2行目から、「・・・ペルシア大王および麾下(きか)の軍隊を養うために、普通の貢税のほか、ペルシアの支配の及ぶ全域が、分担地区に分割されている。そして一年の十二カ月の内四カ月分は、バビロンの地域が王の必要物資を賄い、残りの八カ月分をバビロン以外の全アジア地域が受持つのである。」とあります。

 

「一年の十二カ月の内四カ月分は、『バビロンの地域』が王の必要物資を賄い、残りの八カ月分を『バビロン以外の全アジア地域』が受持つのである。」とあります。

 

「一年の十二カ月の内四カ月分」、すなわち、『3分の1』は『バビロンの地域』が負担する、ということです。

 

それほど『バビロンの国力』は強大である、とヘロドトスは言っているのだと思います。

 

『バビロンの地域』が賄う、というのは、つまり、『バビロンの住人』が賄う、ということで、『バビロンの住人』というのは、「カルデヤ人など」のことです。

 

物品で納める税などを、『バビロンの住人』すなわち「カルデヤ人など」が負担する、のです。

 

つまり、「バビロンは・・・敵の手に落ちた」(一九一、第九文)のですが、『バビロンの住人』は死んだのではない、ということです。

 

生き残って、「ペルシア大王および麾下(きか)の軍隊を養うために」、税を納めるのです。

 

ヘロドトスの『歴史』からは、「これを聖絶して、何一つ残すな」(上記冒頭26節)や、「その雄牛をみな滅ぼせ」(上記冒頭27節)といった状況が想像できません。

 

エレミヤ書50章26節と27節(上記冒頭)に書かれていることは、「メディア・ペルシャ帝国がバビロニア帝国を滅ぼ」(2024/1/15 19:20の、1149965208さんのご回答の第4段落)したときのこと、言い換えると、カルデヤ人の王ベルシャツァルが殺され(ダニエル5:30)てバビロンが滅んだときのこと、『ではない』、と言うことができると思います。

 

その49、に続きます。