エレミヤ書50章について その15

新改訳聖書』第3版のエレミヤ書50章6節(その11冒頭)に、次のように書かれています。
***
6節
わたしの民は、迷った羊の群れであった。その牧者が彼らを迷わせ、山々へ連れ去った。彼らは山から丘へと行(ゆ)き巡って、休み場を忘れてしまった。
***

 

1行目から、「わたしの民は、迷った羊の群れであった。その牧者が彼らを迷わせ・・・た。・・・」とあります。

 

『その牧者が』とあります。

 

「その」というのは、「わたしの民の」のこと、と言うことができると思います。

 

『その牧者が』は、『わたしの民の牧者が』となります。

 

「その牧者が彼らを迷わせ・・・た。・・・」は、「『わたしの民の牧者』が彼ら(すなわち、わたしの民)を迷わせ・・・た。・・・」となります。

 

この『その牧者』というのは、「イスラエルの『牧者たち』」(エゼキエル34:2、その12後半)のことではないでしょうか。

 

エレミヤ書50章6節(上記冒頭)1行目の「・・・牧者・・・」には脚注があり、その脚注ではエゼキエル書34章2節が挙げられています。

 

エゼキエル書34章2節には「イスラエルの牧者たち」のことが書かれており、その34章2節から4節までに、「イスラエルの牧者たち」がどのような者たちであるのかについて書かれています。「その12」をご参照ください。

 

それを読むと、「イスラエルの牧者たち」というのは、『牧者』とは言えない者である、と言うことができると思います。

 

そのような「牧者たち」が『民を迷わせる』ということは、十分考えられます。

 

エゼキエル書34章2節から4節までに、「イスラエルの牧者たち」がどのような者たちであるのかについて書かれた後(あと)に、34章5節と6節(いずれも、その12前半)があります。

 

上記冒頭エレミヤ書50章6節2行目の、「・・・山々・・・」には脚注があり、その脚注ではエゼキエル書34章6節が挙げられています。

 

そのエゼキエル書34章6節に書かれていることは、エレミヤ書50章6節(上記冒頭)に書かれていることと似ています。「その8」をご参照ください。

 

両者は同じときのことを言っているのではないかと思われます。

 

上記冒頭エレミヤ書50章6節1行目の「その牧者」というのは、ほぼ間違いなく、エゼキエル書34章2節の「イスラエルの牧者たち」のことであると思います。

 

そしてその「イスラエルの牧者たち」というのは、王や首長たちのことではないかと考えられます。「その11」をご参照ください。

 

エレミヤ書50章6節(上記冒頭)と7節(その11冒頭)、および17節(その14中ほど、もしくは前半)に書かれていることと、エゼキエル書34章5節と6節(いずれも、その12前半)に書かれていることなどとを照らし合わせると、これらの二つの書には、同じときのことが書かれているのではないか、という考えが浮かびます。

 

エゼキエル書34章5節と6節には、「わたしの羊」が、またエレミヤ書50章17節(その14中ほど、もしくは前半)には、「イスラエル(すなわち、羊)」が、『散らされた』、ということが書かれています。

 

また、エレミヤ書50章17節では「イスラエル」が『羊』にたとえられています。

 

エレミヤ書50章17節の記述から、「イスラエル」は「バビロンの王ネブカデレザル」によって食われて『散らされ』、その一部は『バビロン』に行った、と考えることができると思います。

 

その16、に続きます。

エレミヤ書50章について その14

新改訳聖書』第3版のエゼキエル書34章7節と8節(いずれも、その13前半)に、次のように書かれています。
***
7節
それゆえ、牧者たちよ、のことばを聞け。
8節
わたしは生きている。―神である主の御(み)告げ―わたしの羊はかすめ奪われ、牧者がいないため、あらゆる野の獣のえじきとなっている。それなのに、わたしの牧者たちは、わたしの羊を捜し求めず、かえって牧者たちは自分自身を養い、わたしの羊を養わない。
***

 

8節1行目から、「・・・わたしの羊はかすめ奪われ、牧者がいないため、『あらゆる野の獣のえじきとなっている』。・・・」とあります。

 

同じようなことが、エゼキエル書34章5節(その12前半)にも書かれています。次のようになっています。
***
5節
彼らは牧者がいないので、散らされ、あらゆる野の獣のえじきとなり、散らされてしまった。
***

 

「彼らは・・・『あらゆる野の獣のえじきとな・・・った』。」とあります。

 

「彼ら」というのは、「弱った羊」(4節、その12前半)などの『羊』(2節や3節)のこと、と言うことができると思います。

 

この『羊』というのは、上記8節の、「わたしの羊は・・・牧者がいないため、あらゆる野の獣のえじきとなっている」という記述から、『わたしの羊』のことと考えることができると思います。

 

5節には、「彼らは牧者がいないので、・・・あらゆる野の獣のえじきとな・・・った」とあり、これは8節の、「わたしの羊は・・・牧者がいないため、あらゆる野の獣のえじきとなっている」という記述とほぼ同じです。

 

5節と8節に書かれていることがほぼ同じである、ということから、5節の「彼ら」すなわち『羊』というのは、8節の『わたしの羊』のことであると考えることができると思います。

 

エレミヤ書50章17節(その10冒頭)に、次のように書かれています。
***
17節
イスラエルは雄獅子に散らされた羊。先にはアッシリヤの王がこれを食らったが、今度はついに、バビロンの王ネブカデレザルがその骨まで食らった。
***

 

イスラエル」が「雄獅子に散らされた羊」に、すなわち『羊』にたとえられています。

 

エゼキエル書34章5節(その12前半)に、「彼らは・・・散らされ、・・・散らされてしまった。」とあります。

 

「彼ら」というのは、「弱った羊」(エゼキエル34:4、その12前半)などの『羊』(2節や3節)のこと、と言うことができると思います。

 

エレミヤ書50章17節に、「イスラエルは雄獅子に『散らされた羊』。・・・」とあります。

 

このことばから、「イスラエル(言い換えると、羊)は『雄獅子に散らされた』」、と言うことができます。

 

エゼキエル書34章5節(その12前半)の「彼ら」、すなわち『羊』と同じです。

 

エレミヤ書50章17節(上記)の、「イスラエルは雄獅子に散らされた羊」と、エゼキエル書34章5節(その12前半)の、「彼らは・・・散らされ、・・・散らされてしまった」は、同じときのことを言っているのではないか、という考えが浮かびます。

 

上記エレミヤ書50章17節では続けて、「先にはアッシリヤの王がこれを『食らった』が、今度はついに、バビロンの王ネブカデレザルがその骨まで『食らった』。」とあります。

 

「アッシリヤの王」と「バビロンの王ネブカデレザル」が「雄獅子」にたとえられている、と読むことができると思います。

 

エレミヤ書50章17節(上記)では、「イスラエル(すなわち、羊)」は「雄獅子」に食われて『散らされた』、ということが言われているのではないでしょうか。

 

エゼキエル書34章5節(その12前半)に、次のように書かれています。
***
5節
彼らは牧者がいないので、散らされ、あらゆる野の獣のえじきとなり、散らされてしまった。
***

 

「彼ら(すなわち、羊)は・・・あらゆる野の獣の『えじきとなり』、散らされてしまった。」とあります。

 

『えじきとなった』は、『食われた』ことを意味する、と言うことができます。

 

そして、「雄獅子」は「野の獣」である、と言うことができます。

 

そうすると、上記エゼキエル書34章5節の、「彼ら(すなわち、羊)は・・・あらゆる野の獣のえじきとなり、散らされてしまった」というのは、上記エレミヤ書50章17節の、「イスラエルは雄獅子に散らされた羊」のことを言っているのではないか、という考えが浮かびます。

 

その15、に続きます。

エレミヤ書50章について その13

新改訳聖書』第3版のエゼキエル書34章5節(その12前半)に、「彼らは『牧者がいない』ので、散らされ・・・た。」、または「彼らは牧者がいないので、散らされ・・・てしまった。」とあります。

 

『牧者がいない』ということについては、エゼキエル書34章7節と8節に、次のようにも書かれています。
***
7節
それゆえ、牧者たちよ、のことばを聞け。
8節
わたしは生きている。―神である主の御(み)告げ―わたしの羊はかすめ奪われ、牧者がいないため、あらゆる野の獣のえじきとなっている。それなのに、わたしの牧者たちは、わたしの羊を捜し求めず、かえって牧者たちは自分自身を養い、わたしの羊を養わない。
***

 

8節でも、3節(その12前半)と同様に、「わたしの牧者たちは、・・・わたしの羊を養わない」、ということが言われています。

 

8節1行目から、「・・・わたしの羊はかすめ奪われ、『牧者がいない』ため、あらゆる野の獣のえじきとなっている。それなのに、わたしの牧者たちは、わたしの羊を捜し求めず、かえって牧者たちは自分自身を養い、わたしの羊を養わない。」とあります。

 

『牧者がいない』とあります。

 

『牧者がいない』というのは、「その12」後半で述べたように、「イスラエルの牧者たち」は「羊を養わない」ので、『牧者』とは言えない者たちである、というような意味であると思います。

 

そして、「弱った羊を強めず、病気のものをいやさず、傷ついたものを包まず、迷い出たものを連れ戻さず、失われたものを捜さず、かえって力ずくと暴力で彼らを支配した」という、エゼキエル書34章4節(その12前半)に書かれていることは、「あなたがた」(同章3節)すなわち「イスラエルの牧者たち」は「羊を養わない」(同3節)ということについてのこと、であると思われます。

 

同様に、「わたしの牧者たち(は)が、わたしの羊を捜し求めず、かえって牧者たちは自分自身を養」(上記8節)い、「失われたものを捜」(4節)すなどのことをしないということは、「わたしの『牧者たち』」は「わたしの羊を養わない」、ということだと思います。

 

「牧者は羊を養わなければならない」(2節、その12中ほど)のに、言い換えると、「牧者は羊を養う者である」のに、「わたしの牧者たちは、・・・わたしの羊を養わない」(上記8節)ので、『牧者』とは言えない者たちである、と言うことができると思います。

 

『牧者がいない』、というのは、「わたしの『牧者たち』」は『牧者』とは言えない者たちである、ということを意味していると思います。

 

ちなみに、「牧者たちは自分自身を養い」(上記8節)というのは、3節(その12前半)の、「あなたがた(すなわち、イスラエルの牧者たち)は脂肪を食べ、羊の毛を身にまとい、肥えた羊をほふる・・・」、のことを言っているのではないかと思われます。

 

その14、に続きます。

エレミヤ書50章について その12

「その11」で述べたように、『新改訳聖書』第3版のエゼキエル書34章2節(その11前半)の『牧者たち』というのは、「王」と「首長」、または「王」や「首長」のことである、と考えることができると思います。

 

この『牧者たち』について、エゼキエル書34章3節と4節に、次のように書かれています。
***
3節
あなたがたは脂肪を食べ、羊の毛を身にまとい、肥えた羊をほふるが、羊を養わない。
4節
弱った羊を強めず、病気のものをいやさず、傷ついたものを包まず、迷い出たものを連れ戻さず、失われたものを捜さず、かえって力ずくと暴力で彼らを支配した。
***

 

3節の「あなたがた」というのは、2節(その11前半)の、イスラエルの『牧者たち』」のことです。

 

この『牧者たち』が『羊』に対してどのようにふるまっているのか、について、3節と4節には書かれている、と言うことができると思います。

 

3節に「羊を養わない」とあって、4節では、その「羊を養わない」ということについて、説明を加えていると思われます。

 

3節と4節に続いて、エゼキエル書34章5節と6節に、次のように書かれています。
***
5節
彼らは牧者がいないので、散らされ、あらゆる野の獣のえじきとなり、散らされてしまった。
6節
わたしの羊はすべての山々やすべての高い丘をさまよい、わたしの羊は地の全面に散らされた。尋ねる者もなく、捜す者もない。
***

 

5節に、「彼らは牧者がいないので、散らされ、あらゆる野の獣のえじきとなり、散らされてしまった。」とあります。

 

「彼らは『牧者がいない』ので、・・・」とあります。

 

「彼ら」というのは「『羊』たち」のこと、と言うことができると思います。

 

「『羊』たち」には「イスラエルの『牧者たち』」(34章2節、その11前半)はいるが、『牧者』はいない、ということではないでしょうか。

 

エゼキエル書34章2節(その11前半)には、次のように書かれています。
***
2節
「人の子よ。イスラエルの牧者たちに向かって預言せよ。預言して、彼ら、牧者たちに言え。*神である主はこう仰せられる。ああ。自分を肥やしているイスラエルの牧者たち。牧者は羊を養わなければならないのではないか。

 

* エゼ三四・二、八、十、一一、一五、一七、二〇、三〇、三一「神」の子音字は「

***

 

3行目から、「・・・ああ。自分を肥やしているイスラエルの牧者たち。牧者は羊を養わなければならないのではないか。」とあります。

 

上記34章3節に、「あなたがた(すなわち、イスラエルの牧者たち)は・・・羊を養わない」、とあります。

 

「牧者は羊を養わなければならないのではないか」(上記2節)、というのは、「牧者は羊を養う者である」、ということを言っていると思います。

 

「牧者は羊を養わなければならない」(上記2節)のに、言い換えると、「牧者は羊を養う者である」のに、「あなたがた(すなわち、イスラエルの牧者たち)は・・・羊を養わない」(上記3節)、という文脈になると思います。

 

つまり、「イスラエルの牧者たち」は「羊を養わない」ので、『牧者』とは言えない者たちである、ということです。

 

「彼らは『牧者がいない』」(上記34章5節)というのは、そのような意味だと思います。

 

そして、「羊を養わない」(3節)ということについて、上記4節で説明を加えていると思われます。

 

その13、に続きます。

エレミヤ書50章について その11

新改訳聖書』第3版のエレミヤ書50章6節と7節(いずれも、その8前半)に、次のように書かれています。
***
6節
わたしの民は、迷った羊の群れであった。その牧者が彼らを迷わせ、山々へ連れ去った。彼らは山から丘へと行(ゆ)き巡って、休み場を忘れてしまった。
7節
彼らを見つける者はみな彼らを食らい、敵は『私たちには罪がない。彼らが、正しい牧場(まきば)である、彼らの先祖の望みであったに、罪を犯したためだ』と言った。
***

 

6節1行目の「・・・牧者・・・」には脚注があり、その脚注は「エゼ三四・二・・・」となっています。

 

エゼキエル書34章2節は、次のようになっています。
***
2節
「人の子よ。イスラエルの牧者たちに向かって預言せよ。預言して、彼ら、牧者たちに言え。*神である主はこう仰せられる。ああ。自分を肥やしているイスラエルの牧者たち。牧者は羊を養わなければならないのではないか。

 

* エゼ三四・二、八、十、一一、一五、一七、二〇、三〇、三一「神」の子音字は「

***

 

1行目に、「・・・イスラエルの『牧者たち』に向かって預言せよ。・・・」とあり、2行目に、「・・・彼ら、『牧者たち』に言え。・・・」とあり、また3行目から、「・・・ああ。自分を肥やしているイスラエルの『牧者たち』。牧者は羊を養わなければならないのではないか。」とあります。

 

この「牧者たち」というのは、誰のことであると考えられるでしょうか。

 

エレミヤ書2章8節に、次のように書かれています。
***
8節
  祭司たちは、
  『はどこにおられるのか』と言わず、
  律法を取り扱う者たちも、わたしを知らず、
  牧者たちもわたしにそむき、
  預言者たちはバアルによって預言して、
  無益なものに従って行った。
***

 

「牧者たち」(4行目)が、「祭司たち」「律法を取り扱う者たち」「預言者たち」と並列されています。

 

つまり、「牧者たち」が、「祭司たち」「律法を取り扱う者たち」「預言者たち」とは別の者として言われている、ということです。

 

言い換えると、「祭司たち」「律法を取り扱う者たち」「預言者たち」とは別に「牧者たち」がいる、ということです。

 

エレミヤ書32章32節に、次のように書かれています。
***
32節
それは、イスラエルの子らとユダの子らが、すなわち彼ら自身と、その王、首長、祭司、預言者が、またユダの人もエルサレムの住民も、わたしの怒りを引き起こすために行った、すべての悪のゆえである。
***

 

1行目から、「・・・すなわち彼ら自身と、その王、首長、祭司、預言者が、・・・」とあります。

 

「その王、首長、祭司、預言者」が一列に並んでいます。

 

ここには、「律法を取り扱う者たち」はありませんが、「祭司」、預言者」とは別に、「王」、「首長」があります。

 

また、「牧者たち」はありませんが、「牧者たち」に当たると思われる「王」、「首長」があります。

 

「牧者たち」というのは、「王」と「首長」、または「王」や「首長」のことではないかと思われますが、いかがでしょうか。

 

「牧者たち」というのは、「王」と「首長」、または「王」や「首長」のことである、と考えることができると思います。

 

その12、に続きます。

エレミヤ書50章について その10

新改訳聖書』第3版のエレミヤ書50章17節(その9後半)に、次のように書かれています。
***
17節
イスラエルは雄獅子に散らされた羊。先にはアッシリヤの王がこれを食らったが、今度はついに、バビロンの王ネブカデレザルがその骨まで食らった。
***

 

1行目に、「イスラエルは雄獅子に散らされた羊。・・・」とあります。

 

イスラエル」が「雄獅子に散らされた羊」にたとえられています。

 

エレミヤ書50章6節(その8前半)では、「わたしの民」が「迷った羊の群れ」にたとえられています。

 

イスラエルは雄獅子に散らされた羊。」に続いて、「先にはアッシリヤの王がこれを食らったが、今度はついに、バビロンの王ネブカデレザルがその骨まで食らった。」とあります。

 

この上記冒頭17節の記述から、「雄獅子」というのは、「アッシリヤの王」のことであり、また「バビロンの王ネブカデレザル」のことである、と読むことができると思います。

 

つまり、「アッシリヤの王」と「バビロンの王ネブカデレザル」が「雄獅子」にたとえられている、ということです。

 

そして、「イスラエルは雄獅子に『散らされた』羊。・・・」とあります。

 

イスラエル」はアッシリヤの王に『散らされた』羊であり、「バビロンの王ネブカデレザル」に『散らされた』羊である、と考えることができると思います。

 

エゼキエル書34章6節(その8中ほど)に、次のように書かれています。
***
6節
わたしの羊はすべての山々やすべての高い丘をさまよい、わたしの羊は地の全面に散らされた。尋ねる者もなく、捜す者もない。
***

 

1行目から、「・・・わたしの羊は地の全面に『散らされた』。・・・」とあります。

 

これは、上記冒頭エレミヤ書50章17節の、「雄獅子に『散らされた』羊」のことを言っているのではないでしょうか。

 

もしそうであるとすると、「・・・わたしの羊(は)が地の全面に散らされた・・・」(エゼキエル34:6、上記)のは、「アッシリヤの王」によってであり、また、「バビロンの王ネブカデレザル」によってである、と考えることができると思います。

 

上記エゼキエル書34章6節直前の5節に、次のように書かれています。
***
5節
彼らは牧者がいないので、散らされ、あらゆる野の獣のえじきとなり、散らされてしまった。
***

 

「雄獅子」は「野の獣」である、と言うことができます。

 

「野の獣のえじきとな・・・った」というのは、例えば、「雄獅子」に食われた、ということと考えることができるのではないでしょうか。

 

そのように考えることができるとすると、「彼ら」(上記5節)すなわち「羊たち」は、例えば、「雄獅子」に食われた、と考えることができます。

 

そうすると、「彼ら(すなわち、羊たち)は・・・あらゆる野の獣のえじきとなり、散らされてしまった」(上記5節)は、「彼ら(すなわち、羊たち)は・・・あらゆる野の獣、例えば、雄獅子に食われて、散らされてしまった」、と言うことができると思います。

 

さらに、「雄獅子に食われて、散らされてしまった」は、「アッシリヤの王」や「バビロンの王ネブカデレザル」に「食われて、散らされてしまった」、と考えることができます。

 

もしそうであるとするなら、上記エゼキエル書34章6節の、「・・・わたしの羊(は)が地の全面に散らされた・・・」のは、「アッシリヤの王」によってであり、また、「バビロンの王ネブカデレザル」によってである、と考えることができると思います。

 

その11、に続きます。

エレミヤ書50章について その9

新改訳聖書』第3版のエゼキエル書34章6節(その8中ほど)に、次のように書かれています。
***
6節
わたしの羊はすべての山々やすべての高い丘をさまよい、わたしの羊は地の全面に散らされた。尋ねる者もなく、捜す者もない。
***

 

この6節の、「わたしの羊」は「さまよ(っ)・・・た」と、エレミヤ書50章6節(その8前半)の、「わたしの民は迷った羊の群れであった」、は似ていますが、それだけではなく、この6節の、「わたしの羊はすべての『山々』やすべての高い『丘』をさまよ(っ)・・・た」と、エレミヤ書50章6節の、「彼らは『山』から『丘』へと行(ゆ)き巡っ・・・た」、も似ています。

 

上記エゼキエル書の「『山々』や・・・『丘』を」と、エレミヤ書の「『山』から『丘』へと」が似ています。

 

また、上記エゼキエル書の「さまよった」と、エレミヤ書の「行(ゆ)き巡った」は似ていると思います。

 

どちらも、あちらこちらに行(ゆ)くことを意味している、と言うことができるからです。

 

以上「その8」から述べて来たように、エゼキエル書34章6節(上記冒頭)と、エレミヤ書50章6節(その8前半)とが似ていることから、両者は同じときのことではないか、と考えることができます。

 

エレミヤ書50章7節(その8前半)に、次のように書かれています。
***
7節
彼らを見つける者はみな彼らを食らい、敵は『私たちには罪がない。彼らが、正しい牧場(まきば)である、彼らの先祖の望みであったに、罪を犯したためだ』と言った。
***

 

「彼ら」というのは、50章6節(その8前半)の「わたしの民」または「迷った羊の群れ」のこと、と言うことができます。

 

1行目の、「彼らを見つける者はみな彼らを食らい、・・・」は、「『わたしの民』を見つける者はみな『わたしの民』を食らい、・・・」というようになります。

 

エレミヤ書50章17節に、次のように書かれています。
***
17節
イスラエルは雄獅子に散らされた羊。先にはアッシリヤの王がこれを食らったが、今度はついに、バビロンの王ネブカデレザルがその骨まで食らった。
***

 

この17節の記述から、上記エレミヤ書50章7節の、「彼ら(すなわち、わたしの民など)を見つける者・・・」というのは、「アッシリヤの王」のことではないか、また「バビロンの王ネブカデレザル」のことではないか、と考えることができると思います。

 

上記7節には、「彼らを見つける者はみな彼らを『食ら・・・った』」とあり、17節には、「先にはアッシリヤの王がこれを『食らった』が、今度はついに、バビロンの王ネブカデレザルがその骨まで『食らった』」、とあるからです。

 

その10、に続きます。