エレミヤ書50章について その8

新改訳聖書』第3版のエレミヤ書50章5節(その7第2段落)に書かれていることが、エズラ記の時代に捕囚の民がバビロンから帰還したときのことではない、と言えるので、50章4節に書かれていること、すなわち、「その日、その時、・・・イスラエルの民もユダの民も共に来て、泣きながら歩み、その神、を、尋ね求める」、というのも、そうなります。

 

つまり、50章4節に書かれていることも、エズラ記の時代に捕囚の民がバビロンから帰還したときのことではない、ということです。「その7」をご参照ください。

 

エレミヤ書50章6節と7節に、次のように書かれています。
***
6節
わたしの民は、迷った羊の群れであった。その牧者が彼らを迷わせ、山々へ連れ去った。彼らは山から丘へと行(ゆ)き巡って、休み場を忘れてしまった。
7節
彼らを見つける者はみな彼らを食らい、敵は『私たちには罪がない。彼らが、正しい牧場(まきば)である、彼らの先祖の望みであったに、罪を犯したためだ』と言った。
***

 

エレミヤ書50章4節と5節(いずれも、その7第2段落)に書かれていることは、3節からの文脈からすると、イスラエルの民とユダの民がバビロンから逃げ去った『後(あと)』のことであると考えられます。

 

これに対して、上記50章6節と7節に書かれていることは、「わたしの民」がバビロンから逃げ去る『前』のことである、と言うことができます。

 

上記6節2行目の「・・・山々・・・」には脚注があり、その脚注は「エゼ三四・六」となっています。

 

エゼキエル書34章6節は、次のようになっています。
***
6節
わたしの羊はすべての山々やすべての高い丘をさまよい、わたしの羊は地の全面に散らされた。尋ねる者もなく、捜す者もない。
***

 

1行目から、「わたしの羊はすべての山々やすべての高い丘をさまよい、わたしの羊は地の全面に散らされた。・・・」とあります。

 

エゼキエル書34章6節の、「わたしの羊はすべての山々やすべての高い丘をさまよい」が、上記エレミヤ書50章6節の、「わたしの民は、迷った羊の群れであった。その牧者が彼らを迷わせ、山々へ連れ去った。彼らは山から丘へと行(ゆ)き巡っ・・・た」、と似ています。

 

エゼキエル書の「わたしの羊」は「さまよ(っ)・・・た」と、エレミヤ書の「わたしの民は迷った羊の群れであった」、とが似ています。

 

「迷った羊の群れ」は、「迷った」ので「さまよった」、と考えることができます。

 

エゼキエル書34章3節と4節に、次のように書かれています。
***
3節
あなたがたは脂肪を食べ、羊の毛を身にまとい、肥えた羊をほふるが、羊を養わない。
4節
弱った羊を強めず、病気のものをいやさず、傷ついたものを包まず、迷い出たものを連れ戻さず、失われたものを捜さず、かえって力ずくと暴力で彼らを支配した。
***

 

4節2行目に、「・・・迷い出たものを連れ戻さず、・・・」とあります。

 

「迷い出たもの」というのは、「迷い出た『羊』」のことです。

 

『羊』の中には、「迷い出たもの」がいる、ということが分かります。

 

上記エレミヤ書50章6節の、「わたしの民は、迷った羊の群れであった」というのは、エゼキエル書34章4節の、「迷い出たもの」、すなわち「迷い出た『羊』」のことを言っているのではないでしょうか。

 

その9、に続きます。

エレミヤ書50章について その7

「その6」は、「2024-03-05」です。

 

新改訳聖書』第3版のエレミヤ書50章4節と5節(いずれも、その6冒頭)に、次のように書かれています。
***
4節
その日、その時、―の御(み)告げ―
イスラエルの民もユダの民も共に来て、泣きながら歩み、その神、を、尋ね求める。
5節
彼らはシオンを求め、その道に顔を向けて、『来たれ。忘れられることのないとこしえの契約によって、に連なろう』と言う。
***

 

5節の「彼ら」というのは、4節の「イスラエルの民」と「ユダの民」のこと、と言うことができます。

 

「彼らは・・・言う。」(5節)は、「『イスラエルの民とユダの民』は・・・言う。」となります。

 

5節1行目から、「・・・『来たれ。忘れられることのないとこしえの契約によって、に連なろう』・・・」とあります。

 

「とこしえの契約」には脚注があり、その脚注は「エレ三二・四〇」となっています。

 

エレミヤ書32章40節は次のようになっています。
***
40節
わたしが彼らから離れず、彼らを幸福にするため、彼らととこしえの契約を結ぶ。わたしは、彼らがわたしから去らないようにわたしに対する恐れを彼らの心に与える。
***

 

「彼ら」というのは、さしあたり、エレミヤ書32章30節のイスラエルの子らとユダの子ら」のこと、及び32節に書かれている人々のことと考えられます。

 

32節に書かれている人々というのは、「・・・イスラエル子らとユダの子ら・・・、すなわち彼ら自身と、その王、首長、祭司、預言者・・・、またユダの人もエルサレムの住民も・・・」のこと、と考えられます。『「契約」について その1』(2024-03-16)をご参照ください。

 

上記40節1行目から、「わたしが彼らから離れず、彼らを幸福にするため、彼らととこしえの契約を結ぶ。・・・」とあります。

 

この40節の「とこしえの契約」というのは、いわゆる「旧約」のことではない、と言うことができます。『「契約」について その2』(2024-03-19)をご参照ください。

 

エレミヤ書32章40節(上記)の「とこしえの契約」が、同書50章5節(上記第2段落)の「とこしえの契約」と同じものであるとすると、50章5節の「とこしえの契約」は、いわゆる「旧約」のことではない、ということになります。

 

そして今のところ、32章40節の「とこしえの契約」と、50章5節の「とこしえの契約」は同じものである、と考えています。

 

違うものであることが分かった場合には、もう一度考えます。

 

32章40節の「とこしえの契約」と50章5節の「とこしえの契約」が同じものであるとすると、50章5節に書かれていることは、エズラ記の時代に捕囚の民がバビロンから帰還したときのことではない、ということになります。『「契約」について その5』(2024-03-26)をご参照ください。

 

50章5節(上記第2段落)に書かれていることが、エズラ記の時代に捕囚の民がバビロンから帰還したときのことではないとすると、50章4節に書かれていることもそうなります。

 

50章5節の「彼ら」というのは、同章4節の「イスラエル民」と「ユダの民」のこと、と言うことができるからです。

 

つまり、5節の「彼ら」と、4節の「イスラエルの民」および「ユダの民」とは同じ人々だからです。

 

5節の「彼ら」と4節の「イスラエルの民」および「ユダの民」とは同じ人々だから、50章4節に書かれていることも、エズラ記の時代に捕囚の民がバビロンから帰還したときのことではない、ということです。

 

その8、に続きます。

「契約」について その7

新改訳聖書』第3版のエレミヤ書32章39節と40節(その6前半)に、次のように書かれています。
***
39節
わたしは、いつもわたしを恐れさせるため、彼らと彼らの後(のち)の子らの幸福のために、彼らに一つの心と一つの道を与え、
40節
わたしが彼らから離れず、彼らを幸福にするため、彼らととこしえの契約を結ぶ。わたしは、彼らがわたしから去らないようにわたしに対する恐れを彼らの心に与える。
***

 

39節1行目に、「わたしは、いつもわたしを恐れさせるため、・・・」とあります。

 

捕囚から帰って来た人々は、「『いつも』わたしを恐れ」ているとは言えない、と言うことができると思います。エズラ9章1節から4節まで(その6後半)をご参照ください。

 

また、捕囚から帰って来た人々は、「一つの心」(エレミヤ書32章39節、上記冒頭)にはなっていません。

 

エズラ記9章1節(その6後半)に書かれているような『不信の罪』を犯す者がいる「イスラエルの子ら」は、「幸福に」なっていると言えるでしょうか。

 

エズラ記9章3節(その6後半)に、「私はこのことを聞いて、着物と上着を裂き、髪の毛とひげを引き抜き、色を失ってすわってしまった。」とあります。

 

これは、「幸福に」(上記冒頭40節)なっている人の行為と言えるでしょうか。

 

もちろん、言えません。

 

エズラ記9章1節(その6後半)に書かれている「イスラエルの民や、祭司や、レビ人(びと)」は、『不信の罪』を犯す者であり、「イスラエルの神のことばを恐れている者」ではない、と言うことができます。

 

以上見て来たように、エレミヤ書32章40節に、エレミヤ書50章5節(その1冒頭)に脚注のある「とこしえの契約」がありますが、この「とこしえの契約」は、エズラ記の時代に捕囚の民が帰還したとき、及びそれ以降のことではない、と言うことができます。

 

「それ以降」というのが、現在よりも後(あと)の時代を含む、ということを別にして、です。

 

言い換えると、「それ以降」というのは、エズラ記の時代に捕囚の民が帰還してから現在まで、ということです。

 

エズラ記の時代以降マラキ書の時代までに、「とこしえの契約」が結ばれたことを示す箇所を見つけることができません。

 

見つけたらもう一度考えますが、今のところ、「とこしえの契約」が結ばれるのは、現在よりも後(あと)のことであると考えています。

 

現在も、「とこしえの契約」が結ばれている、とは言えません。

 

イスラエルの子ら」は、現在、「幸福に」(エレミヤ32:40、上記冒頭)なっている、とは言えないからです。

 

イスラエルでは、紛争が絶えません。

 

また、「一つの心」(エレミヤ32:39、上記冒頭)になっている、とは言えません。

 

「わたしは、彼らがわたしから去らないようにわたしに対する恐れを彼らの心に与え」(エレミヤ32:40、上記冒頭)た、とも言えません。

 

イスラエルの神のことばを恐れて」(エズラ9:4、その6後半)、イスラエルの神のことばを守っていないからです。

 

現在のイスラエル人は、「若いころから、わたしの目の前に悪のみを行」(エレミヤ32:30、その2前半)っていた「イスラエルの子らとユダの子ら」(同)と共通する点がある、と言えるのではないでしょうか。

 

そして、エレミヤ書32章40節(上記冒頭)の「とこしえの契約」というのは、エレミヤ書50章5節(その1冒頭)の「とこしえの契約」のことである、と考えられます。

 

いかがでしょうか、どのように思われますか。

「契約」について その6

新改訳聖書』第3版のエレミヤ書32章38節(その5中ほど、もしくは後半)に続いて、「その1」前半で引用したエレミヤ書32章39節と40節があります。

 

エレミヤ書32章39節と40節は、次のようになっています。
***
39節
わたしは、いつもわたしを恐れさせるため、彼らと彼らの後(のち)の子らの幸福のために、彼らに一つの心と一つの道を与え、
40節
わたしが彼らから離れず、彼らを幸福にするため、彼らととこしえの契約を結ぶ。わたしは、彼らがわたしから去らないようにわたしに対する恐れを彼らの心に与える。
***

 

39節の『彼ら』は、38節や37節の『彼ら』と同じである、と言うことができます。

 

40節の『彼ら』も、さしあたり、38節や37節の『彼ら』と同じである、と言うことができます。

 

37節から40節までの文脈の中で考えると、39節の『彼ら』と40節の『彼ら』は、エズラ記の時代にバビロンから帰還した『捕囚の民』のことではない、と言うことができることから、39節と40節に書かれていることは、エズラ記の時代に捕囚の民が帰還したときのことではない、と言うことができます。

 

つまり、「わたしが・・・彼らととこしえの契約を結ぶ」(上記40節)のは、エズラ記の時代に捕囚の民が帰還したときのことではない、ということです。

 

では、「わたしが・・・彼らととこしえの契約を結ぶ」(上記40節)のは、エズラ記の時代に捕囚の民が帰還した『後(あと)』のことでしょうか。

 

エズラ記からマラキ書まで、「とこしえの契約」が結ばれた、ということについて書かれている箇所を、今のところ見つけることができません。

 

もし見つけたなら、もう一度考えてみます。

 

上で述べたように、エレミヤ書32章39節と40節に書かれていることは、エズラ記の時代に捕囚の民が帰還したときのことではない、と言うことができます。

 

また、エズラ記の時代に捕囚の民が帰還したとき、及びそれ以降、イスラエルの子らが「幸福に」(上記40節)なったとは思えないことからも、「わたしが・・・彼らととこしえの契約を結ぶ」(上記40節)のは、捕囚の民が帰還したときのことではない、と言うことができると思います。

 

エズラ記9章1節から4節までに、「捕囚から帰って来た人々の不信の罪」のことが書かれています。

 

エズラ記9章1節から4節までは、次のようになっています。
***
1節
これらのことが終わって後、つかさたちが私のところに近づいて来て次のように言った。「イスラエルの民や、祭司や、レビ人(びと)は、カナン人、ヘテ人、ペリジ人、エブス人、アモン人、モアブ人、エジプト人、エモリ人などの、忌みきらうべき国々の民と縁を絶つことなく、
2節
かえって、彼らも、その息子たちも、これらの国々の娘をめとり、聖なる種族がこれらの国々の民と混じり合ってしまいました。しかも、つかさたち、代表者たちがこの不信の罪の張本人なのです。」
3節
私はこのことを聞いて、着物と上着を裂き、髪の毛とひげを引き抜き、色を失ってすわってしまった。
4節
捕囚から帰って来た人々の不信の罪のことで、イスラエルの神のことばを恐れている者はみな、私のところに集まって来た。私は夕方のささげ物の時刻まで、色を失ってじっとすわっていた。
***

 

4節1行目から、「・・・イスラエルの神のことばを恐れている者はみな、・・・」とあります。

 

捕囚から帰って来た人々の中には、「イスラエルの神のことばを恐れている者」がいる、ということが分かります。

 

しかし1節の、「イスラエルの民や、祭司や、レビ人(びと)」のように、『不信の罪』を犯す者もいます。

 

このような者は、「イスラエルの神のことばを恐れている」、とは言えないと思います。

 

その7、に続きます。

「契約」について その5

新改訳聖書』第3版のエレミヤ書32章37節(その4冒頭)に、次のように書かれています。
***
37節
「見よ。わたしは、わたしの怒りと、憤りと、激怒とをもって散らしたすべての国々から彼らを集め、この所に帰らせ、安らかに住まわせる。
***

 

1行目から、、「・・・わたしは、わたしの怒りと、憤りと、激怒とをもって散らしたすべての国々から彼らを集め・・・る。」とあります。

 

このことばから、『彼ら』というのは、「わたし」が「わたしの怒りと、憤りと、激怒とをもって」『すべての国々』に「散らした」人々のことである、ということが分かります。

 

『すべての国々』と言っても、それは「『散らした』すべての国々」、のことです。

 

「散らしたすべての国々から」というのは、「『散らした国々』のすべてから」、と読むことができます。

 

もしも散らされていない国があれば、言うまでもなく、その国は対象外となります。

 

その国から集める、ということにはなりません。

 

「散らした『すべての国々』から彼らを集め・・・る」、ということから、この37節(上記冒頭)で言われていることは、エズラ記の時代に、捕囚の民が帰還したときのことではない、と言うことができます。

 

上記冒頭32章37節2行目の、「・・・彼らを集め・・・」ということばだけを見ると、エズラ記の時代に、捕囚の民が帰還したときのことであるかのように考えられなくもない、と思います。

 

しかし、「わたしの怒りと、憤りと、激怒とをもって散らした『すべての国々から』彼らを集め」る、とあるので、これは、エズラ記の時代に、捕囚の民が帰還したときのことではない、と言うことができます。

 

エズラ記の時代に捕囚の民が帰還したのは、散らされた『すべての国々から』ではなく、バビロン『一国から』だからです。

 

したがって、エレミヤ書32章37節(上記冒頭)に書かれていることは、エズラ記の時代に、捕囚の民が帰還したときのことではない、と言うことができるのです。

 

そうすると、37節の『彼ら』というのは、エズラ記の時代にバビロンから帰還した『捕囚の民』のことではない、ということになります。

 

エレミヤ書32章37節(上記冒頭)に続いて、38節に、次のように書かれています。
***
38節
彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。
***

 

37節と38節の文脈から、「彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる」(38節)のは、「わたしは、わたしの怒りと、憤りと、激怒とをもって散らした『すべての国々から』彼らを集め、この所に帰らせ、安らかに住まわせる」(37節)とき、もしくは、そのとき以降のことであると考えられます。

 

つまり、「わたしは、わたしの怒りと、憤りと、激怒とをもって散らした『すべての国々から』彼らを集め、この所に帰らせ、安らかに住まわせる」(37節)とき、もしくは、そのとき以降に、「彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる」(38節)、ということです。

 

そして38節の『彼ら』と37節の『彼ら』は同じである、と言うことができます。

 

37節の『彼ら』は、上で述べたように、エズラ記の時代にバビロンから帰還した『捕囚の民』のことではない、と言うことができます。

 

そうすると、上記38節の『彼ら』も、エズラ記の時代にバビロンから帰還した『捕囚の民』のことではない、ということになります。

 

そうであるとすると、38節の、「彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる」のは、エズラ記の時代に捕囚の民が帰還したときのことではない、ということになります。

 

上記38節の『彼ら』は、エズラ記の時代にバビロンから帰還した『捕囚の民』のことではない、と言うことができるからです。

 

このように、上記冒頭エレミヤ書32章37節と上記38節に書かれていることは、『彼ら』というのがエズラ記の時代にバビロンから帰還した『捕囚の民』のことではない、ということから、エズラ記の時代のことではない、と言うことができます。

 

その6、に続きます。

「契約」について その4

新改訳聖書』第3版のエレミヤ書32章37節(その3前半)に、次のように書かれています。
***
37節
「見よ。わたしは、わたしの怒りと、憤りと、激怒とをもって散らしたすべての国々から彼らを集め、この所に帰らせ、安らかに住まわせる。
***

 

1行目から、「・・・わたしは、わたしの怒りと、憤りと、激怒とをもって散らしたすべての国々から彼らを集め・・・る。」とあります。

 

このことばから、『彼ら』というのは、「わたし」が「わたしの怒りと、憤りと、激怒とをもって」「すべての国々」に「散らした」人々のことである、ということが分かります。

 

「わたしは・・・すべての国々から彼らを集め・・・る」のですが、集める前に、「すべての国々」に彼らを散らした、のです。

 

「わたしの怒りと、憤り」(上記冒頭37節1行目)については、例えば、エレミヤ書32章29節と30節に、次のように書かれています。
***
29節
また、この町を攻めているカルデヤ人は、来て、この町に火をつけて焼く。また、人々が屋上でバアルに*香をたき、ほかの神々に注ぎのぶどう酒を注いで、わたしの怒りを起こしたその家々にも火をつけて焼く。

 

* あるいは「いけにえを焼いて煙にし」

 

30節
なぜなら、イスラエルの子らとユダの子らは、若いころから、わたしの目の前に悪のみを行い、イスラエルの子らは、その手のわざをもってわたしの怒りを引き起こすのみであったからだ。の御(み)告げ―
***

 

29節2行目から、「・・・また、人々が屋上でバアルに*香をたき、ほかの神々に注ぎのぶどう酒を注いで、わたしの怒りを起こしたその家々にも火をつけて焼く。」とあります。

 

「・・・人々が屋上でバアルに*香をたき、ほかの神々に注ぎのぶどう酒を注いで、わたしの怒りを起こした・・・」とあります。

 

「人々が屋上でバアルに*香をたき、ほかの神々に注ぎのぶどう酒を注い」だことが、「わたしの怒りを起こした」、と言うことができると思います。

 

また、30節1行目から、「・・・イスラエルの子らとユダの子らは、若いころから、わたしの目の前に悪のみを行い、イスラエルの子らは、その手のわざをもってわたしの怒りを引き起こすのみであったからだ。・・・」とあります。

 

「・・・イスラエルの子らは、その手のわざをもってわたしの怒りを引き起こすのみであった・・・」とあります。

 

イスラエルの子ら・・・の手のわざ」が「わたしの怒りを引き起こすのみであった」、と言うことができると思います。

 

つまり、「イスラエルの子ら・・・の手のわざ」が「わたしの怒りを引き起こ」した、ということです。

 

30節に続いて、エレミヤ書32章31節には、次のように書かれています。
***
31節
この町は、建てられた日から今日まで、わたしの怒りと憤りを引き起こしてきたので、わたしはこれをわたしの顔の前から取り除く。
***

 

1行目から、「この町は、建てられた日から今日まで、わたしの怒りと憤りを引き起こしてきたので、・・・」とあります。

 

「この町」というのは、29節の「この町」、および28節の「この町」のこと、と言うことができると思います。

 

エレミヤ書32章28節と29節は、次のようになっています。
***
28節
「それゆえ、はこう仰せられる。見よ。わたしはこの町を、カルデヤ人の手と、バビロンの王ネブカデレザルの手に渡す。彼はこれを取ろう。
29節
また、この町を攻めているカルデヤ人は、来て、この町に火をつけて焼く。また、人々が屋上でバアルに*香をたき、ほかの神々に注ぎのぶどう酒を注いで、わたしの怒りを起こしたその家々にも火をつけて焼く。

 

* あるいは「いけにえを焼いて煙にし」

 

***

 

これらの節の記述から、「この町」というのは、「エルサレムのこと、と言うことができます。

 

28節に、「・・・見よ。わたしはこの町を、カルデヤ人の手と、バビロンの王ネブカデレザルの手に渡す。彼はこれを取ろう。」とあることから、「この町」というのは「エルサレムのこと、と言うことができると思います。

 

「この町は、建てられた日から今日まで、わたしの怒りと憤りを引き起こしてきた・・・」(上記31節)は、「『エルサレム』は、建てられた日から今日まで、わたしの怒りと憤りを引き起こしてきた・・・」となります。

 

31節に、「この町(すなわち、エルサレム)は、建てられた日から今日まで、わたしの怒りと憤りを引き起こしてきたので、わたしはこれ(すなわち、エルサレム)をわたしの顔の前から取り除く。」とあります。

 

エルサレムは「わたしの顔の前から取り除」かれる、ということになります。

 

エルサレムが「わたしの顔の前から取り除」かれる結果として、エルサレムの住民は『すべての国々』に散らされる、のではないかと思われます。

 

その5、に続きます。

「契約」について その3

新改訳聖書』第3版のエレミヤ書32章40節(その1前半)に、次のように書かれています。
***
40節
わたしが彼らから離れず、彼らを幸福にするため、彼らととこしえの契約を結ぶ。わたしは、彼らがわたしから去らないようにわたしに対する恐れを彼らの心に与える。
***

 

1行目から、「わたしが彼らから離れず、彼らを幸福にするため、彼らととこしえの契約を結ぶ。・・・」とあります。

 

このことばから、「とこしえの契約」は「わたしが彼らから離れず、彼らを幸福にするため」に結ばれる、ということが分かります。

 

「わたし」というのは、32章36節の記述から、「イスラエルの神、」のこと、と言うことができます。

 

エレミヤ書32章36節は次のようになっています。
***
36節
それゆえ、今、イスラエルの神、は、あなたがたが、「剣とききんと疫病により、バビロンの王の手に渡される」と言っているこの町について、こう仰せられる。
***

 

1行目から、「・・・イスラエルの神、は・・・こう仰せられる。」とあって、37節があります。

 

エレミヤ書32章37節は次のようになっています。
***
37節
「見よ。わたしは、わたしの怒りと、憤りと、激怒とをもって散らしたすべての国々から彼らを集め、この所に帰らせ、安らかに住まわせる。
***

 

36節と37節の文脈から、37節の「わたし」というのは、イスラエルの神、」のこと、と言うことができます。

 

そして、37節の左かぎかっこ以降は、イスラエルの神、が仰せられたことばになります。

 

この37節の左かぎかっこの相手である右かぎかっこは、41節にあります。

 

そうすると、37節から41節までの「わたし」というのは、すべて、「イスラエルの神、」のこととなります。

 

したがって40節(上記冒頭)の「わたし」というのは、「イスラエルの神、」のこと、と言うことができます。

 

39節(その1前半)の「わたし」も、同じです。

 

そうすると、上記冒頭40節の、「わたしが彼らから離れず、彼らを幸福にするため、彼らととこしえの契約を結ぶ。・・・」は、「『イスラエルの神、』が彼らから離れず、彼らを幸福にするため、彼らととこしえの契約を結ぶ。・・・」となります。

 

イスラエルの神、』が『彼らと』とこしえの契約を結ぶ、のです。

 

『彼らと』の『彼ら』というのは、「その2」で述べたように、32節(その1中ほど)に書かれている人々のこと、すなわち、「・・・イスラエルの子らとユダの子ら・・・、すなわち彼ら自身と、その王、首長、祭司、預言者・・・、またユダの人もエルサレムの住民も・・・」のこと、と考えられます。

 

この『彼ら』は、32章32節(その1中ほど)の記述から、「わたしの怒りを引き起こすために行った、すべての悪」を行なった者たちである、と言うことができます。

 

その『彼ら』と、イスラエルの神、は「とこしえの契約」を結ぶのです。

 

へブル人への手紙8章9節(その2後半)の、「・・・わたしが彼らの父祖たちの手を引いて、彼らをエジプトの地から導き出した日に彼らと結んだ契約・・・」については、主は、「彼らがわたしの契約を守り通さないので、わたしも、彼らを顧みなかった」、と言われました。

 

これに対して、エレミヤ書32章40節(上記冒頭)の「とこしえの契約」については、「わたしが彼らから離れず、彼らを幸福にするため、彼らととこしえの契約を結ぶ」、と言われています。

 

「わたしが彼らから離れず、彼らを幸福にする」ということから、『彼ら』は、「あの初めの契約」(ヘブル8:7、その2後半)とは違って、「とこしえの契約」は守り、また守り通す、と考えられます。

 

『彼ら』は「とこしえの契約」は守るので、「幸福になる」と考えられるのです。

 

『彼ら』が「とこしえの契約」を守るのは、「わたしは、彼らがわたしから去らないようにわたしに対する恐れを彼らの心に与える」(40節、上記冒頭)からではないか、と思われます。

 

また、「わたしは、いつもわたしを恐れさせるため、彼らと彼らの後(のち)の子らの幸福のために、彼らに一つの心と一つの道を与え」(39節、その1前半)るからではないか、と思われます。

 

「あの初めの契約」(ヘブル8:7、その2後半)、すなわち、「わたしが彼らの父祖たちの手を引いて、彼らをエジプトの地から導き出した日に彼らと結んだ契約」(ヘブル8:9、その2後半)の場合は、「彼らがわたしの契約を守り通さないので、わたしも、彼らを顧みなかった」(ヘブル8:9、その2後半)のですが、「とこしえの契約」の場合は、『彼ら』は『顧みられる』、と考えられます。

 

以上のことからも、「とこしえの契約」というのは、「あの初めの契約」(ヘブル8:7、その2後半)、いわゆる「旧約」のことではない、と言うことができると思います。

 

その4、に続きます。