「契約」について その2

新改訳聖書』第3版のエレミヤ書32章39節(その1前半)1行目から40節までに、「(39節)わたしは、いつもわたしを恐れさせるため、彼らと彼らの後(のち)の子らの幸福のために、彼らに一つの心と一つの道を与え、(40節)わたしが彼らから離れず、彼らを幸福にするため、彼らととこしえの契約を結ぶ。・・・」とあります。

 

「わたしは、・・・『彼らと』とこしえの契約を結ぶ」、とあります。

 

この『彼ら』というのは、エレミヤ書32章32節(その1中ほど)に書かれている人々のこと、すなわち、「・・・イスラエルの子らとユダの子ら・・・、すなわち彼ら自身と、その王、首長、祭司、預言者・・・、またユダの人もエルサレムの住民も・・・」のこと、と考えられます。

 

この『彼ら』は、32章32節の記述から、「わたしの怒りを引き起こすために行った、すべての悪」(32節)を行なった者たちであることが分かります。

 

また、エレミヤ書32章30節には、次のように書かれています。
***
30節
なぜなら、イスラエルの子らとユダの子らは、若いころから、わたしの目の前に悪のみを行い、イスラエルの子らは、その手のわざをもってわたしの怒りを引き起こすのみであったからだ。の御(み)告げ―
***

 

イスラエルの子らとユダの子らは、若いころから、わたしの目の前に悪のみを行」なっていた、ということが言われています。

 

「わたしは、・・・『彼らと』とこしえの契約を結ぶ」(エレ32:39・40、その1前半)、というのは、「わたし」、すなわち、「イスラエルの神、」(36節)は、このような「悪のみを行」なった者たちと、「とこしえの契約を結ぶ」、ということです。

 

そして、イスラエルの神、が「『彼らと』とこしえの契約を結ぶ」(40節、その1前半)、と言われたのは、『エレミヤ』に対して、です。エレミヤ書32章26節以降をご参照ください。

 

ということは、この「とこしえの契約」は、エレミヤの時代以降に結ばれる契約である、ということになります。

 

『結ぶ』(40節、その1前半)とあるので、まだ結ばれていない、と言うことができます。

 

つまり、エレミヤの時代より前に結ばれたものではない、ということです。

 

いわゆる「旧約」というのは、例えば、へブル人への手紙8章7節の、「・・・あの初めの契約・・・」のこと、と言うことができると思います。

 

へブル人への手紙8章7節は、次のようになっています。
***
7節
もしあの初めの契約が欠けのないものであったなら、後(のち)のものが必要になる余地はなかったでしょう。
***

 

7節のこの、「あの初めの契約」というのは、へブル人への手紙8章9節の、「・・・わたしが彼らの父祖たちの手を引いて、彼らをエジプトの地から導き出した日に彼らと結んだ契約・・・」のこと、と言うことができます。

 

へブル人への手紙8章9節は、次のようになっています。
***
9節
  それは、わたしが彼らの父祖たちの手を引いて、
  彼らをエジプトの地から導き出した日に
  彼らと結んだ契約のようなものではない。
  彼らがわたしの契約を守り通さないので、
  わたしも、彼らを顧みなかったと、
  主は言われる。
***

 

いわゆる「旧約」が「彼らをエジプトの地から導き出した日に彼らと結んだ契約」のことであるとすると、エレミヤ書32章40節(その1前半)の、「とこしえの契約」というのは、いわゆる「旧約」のことではない、と言うことができます。

 

エレミヤは、「彼らをエジプトの地から導き出した日」よりもずっと後(あと)の時代の人だからです。

 

「とこしえの契約」は、上で述べたように、エレミヤの時代以降に結ばれる、と考えられるのです。

 

つまり、「とこしえの契約」というのは、いわゆる「旧約」のことではない、ということです。

 

その3、に続きます。

「契約」について その1

新改訳聖書』第3版のエレミヤ書50章5節に、次のように書かれています。
***
5節
彼らはシオンを求め、その道に顔を向けて、『来たれ。忘れられることのないとこしえの契約によって、に連なろう』と言う。
***

 

「彼ら」というのは、同章4節の「イスラエルの民」と「ユダの民」のことです。

 

「彼らは・・・言う。」(5節1行目から)は、「イスラエルの民とユダの民は・・・言う。」となります。

 

1行目から、「・・・忘れられることのないとこしえの契約・・・」とあります。

 

「とこしえの契約」には脚注があり、その脚注は「エレ三二・四〇」となっています。

 

エレミヤ書32章40節は次のようになっています。39節も合わせて引用します。
***
39節
わたしは、いつもわたしを恐れさせるため、彼らと彼らの後(のち)の子らの幸福のために、彼らに一つの心と一つの道を与え、
40節
わたしが彼らから離れず、彼らを幸福にするため、彼らととこしえの契約を結ぶ。わたしは、彼らがわたしから去らないようにわたしに対する恐れを彼らの心に与える。
***

 

39節の「彼ら」というのは、30節の「イスラエルの子らとユダの子ら」のこと、及び32節に書かれている人々のことと考えられます。

 

エレミヤ書32章32節は、次のようになっています。
***
32節
それは、イスラエルの子らとユダの子らが、すなわち彼ら自身と、その王、首長、祭司、預言者が、またユダの人もエルサレムの住民も、わたしの怒りを引き起こすために行った、すべての悪のゆえである。
***

 

続いてエレミヤ書32章33節は、次のようになっています。
***
33節
彼らはわたしに、顔ではなくて背を向け、わたしがしきりに彼らに教えるが、聞いて懲らしめを受ける者もなく、
***

 

33節の、「彼らはわたしに、顔ではなくて背を向け、・・・」の「彼ら」というのは、32節の「・・・イスラエルの子らとユダの子ら・・・、すなわち彼ら自身と、その王、首長、祭司、預言者・・・、またユダの人もエルサレムの住民も・・・」のこと、と言うことができます。

 

同様に、35節の「彼ら」、37節の「彼ら」、38節の「彼ら」、及び39節の「彼ら」も、32節に書かれている人々のこと、と言うことができます。

 

40節の「彼ら」も、32節に書かれている人々のことと思われます。

 

ただし40節の「彼ら」の場合は、39節の「彼らと彼らの後(のち)の子ら」のことかもしれません。

 

さしあたり、32節に書かれている人々のことと考えます。

 

その2、に続きます。

エレミヤ書50章について その6

新改訳聖書』第3版のエレミヤ書50章4節と5節に、次のように書かれています。
***
4節
その日、その時、―の御(み)告げ―
イスラエルの民もユダの民も共に来て、泣きながら歩み、その神、を、尋ね求める。
5節
彼らはシオンを求め、その道に顔を向けて、『来たれ。忘れられることのないとこしえの契約によって、に連なろう』と言う。
***

 

エレミヤ書50章3節(その1及びその5冒頭)に、「・・・人間から家畜に至るまで逃げ去った・・・」、とあります。

 

「人間から家畜に至るまで逃げ去った」、とあって、上記冒頭の4節があります。

 

4節に、「その日、その時、・・・イスラエルの民もユダの民も共に来て、泣きながら歩み、その神、を、尋ね求める。」とあります。

 

3節からの文脈の中で考えると、バビロンから逃げ去った人々の中には、「イスラエルの民もユダの民も」いる、と考えられます。

 

3節からの文脈からすると、「イスラエルの民もユダの民も」(4節)バビロンから逃げ去った人々である、と考えられるのです。

 

「逃げ去った」あとに、「泣きながら歩み、その神、を、尋ね求める」、ということになると思います。

 

そして、「イスラエルの民もユダの民も共に来て、泣きながら歩み、その神、を、尋ね求め」て、「彼らはシオンを求め、その道に顔を向けて、『来たれ。忘れられることのないとこしえの契約によって、に連なろう』と言う」(5節)、ということになるのだと思います。

 

イスラエルの民もユダの民も・・・その神、を、尋ね求める」とあるので、彼らは「その神、」に立ち返るものと考えられます。

 

5節に、「彼らは・・・『来たれ。忘れられることのないとこしえの契約によって、に連なろう』と言う。」とあります。

 

「彼ら」というのは、4節の「イスラエルの民」と「ユダの民」のこと、と言うことができます。

 

「『・・・忘れられることのないとこしえの契約によって、に連なろう』と言う」とあるので、「彼ら」は「忘れられることのないとこしえの契約」を知っている、と言うことができます。

 

「忘れられることのないとこしえの契約」というのは、どのような契約のことであると考えられるでしょうか。

 

いわゆる「旧約」のことでしょうか、それとも、いわゆる「新約」のことでしょうか。

 

あるいは、そのどちらでもないものでしょうか。

 

その7、に続きます。

エレミヤ書50章について その5

新改訳聖書』第3版のエレミヤ書50章1節から3節までに、次のように書かれています。
***
1節
預言者エレミヤを通して、バビロンについて、すなわちカルデヤ人の国について語られたみことば。
2節
  「諸国の民の間に告げ、旗を掲げて知らせよ。
  隠さずに言え。
  『バビロンは捕らえられた。
  ベルははずかしめられ、
  メロダクは砕かれた。
  その像ははずかしめられ、
  その偶像は砕かれた。』
3節
なぜなら、北から一つの国がここに攻め上り、この地を荒れ果てさせたからだ。ここには住む者もない。人間から家畜に至るまで逃げ去った。
***

 

3節2行目から、「・・・人間から家畜に至るまで逃げ去った。」とあります。

 

「逃げ去った」という言葉から、3節に書かれていることは、エズラ記の時代に捕囚の民が帰還したときのことではない、と言うことができます。

 

捕囚の民が帰還したときには、バビロンから逃げて来たのではないからです。エズラ記1章をご参照ください。

 

3節には、「逃げ去っ『た』」とあるので、ここは、すでに終わったこと、または過去のこととして言われています。

 

この部分だけではなく、2節と3節は、すでに終わったこと、または過去のこととして言われています。

 

エレミヤ書50章8節から10節までに、次のように書かれています。
***
8節
  バビロンの中から逃げ、カルデヤ人の国から出よ。
  群れの先頭に立つやぎのようになれ。
9節
  見よ。わたしが、大国の集団を奮い立たせて、
  北の地からバビロンに攻め上らせる。
  彼らはこれに向かって陣ぞなえをし、
  これを攻め取る。
  彼らの矢は、練達の勇士の矢のようで、
  むなしくは帰らない。
10節
  カルデヤは略奪され、
  これを略奪する者はみな満ち足りる。
  ―の御(み)告げ―
***

 

8節に、「バビロンの中から逃げ、カルデヤ人の国から出よ。・・・」とあります。

 

3節に書かれていることとは違って、ここでは、「逃げ・・・『よ』」と言われています。

 

ここではまだ、「バビロンの中から逃げ」去ってはいません。

 

「バビロンの中から逃げ・・・『よ』」(8節)と言われているので「逃げ去っ『た』」(3節)、つまり、神のことばが成就した、と考えることができます。

 

その場合、「逃げ去った」(3節)者は神のことばに従った、と言うことができると思います。

 

ところで、「バビロンの中から逃げ・・・よ」と言われているのは、どうしてであると考えられるでしょうか。

 

9節1行目から、「見よ。わたしが、大国の集団を奮い立たせて、北の地からバビロンに攻め上らせる。・・・」とあります。

 

続いて、9節3行目から、「彼らはこれに向かって陣ぞなえをし、これを攻め取る。彼らの矢は、練達(れんたつ)の勇士の矢のようで、むなしくは帰らない。」とあります。

 

つまり、「わたしが、大国の集団を奮い立たせて、北の地からバビロンに攻め上らせ」、「彼らはこれに向かって陣ぞなえをし、これを攻め取」り、「彼らの矢は、練達(れんたつ)の勇士の矢のようで、むなしくは帰らない」ので、「バビロンの中から逃げ・・・よ」と言われているのではないでしょうか。

 

そのように考えることはできると思います。

 

また、「わたしが、大国の集団を奮い立たせて、北の地からバビロンに攻め上らせる」(9節)というのは、3節(上記冒頭)1行目の、「・・・北から一つの国がここに攻め上り・・・」のことである、と考えることができます。

 

「わたしが、大国の集団を奮い立たせて、北の地からバビロンに攻め上らせる」ので、「北から一つの国がここ(すなわち、バビロン)に攻め上」る、と考えることができます。

 

「バビロンの中から逃げ、カルデヤ人の国から出よ」(8節)と言われているのは、「わたしが、大国の集団を奮い立たせて、北の地からバビロンに攻め上らせ」、「彼らはこれに向かって陣ぞなえをし、これを攻め取」り、「彼らの矢は、練達(れんたつ)の勇士の矢のようで、むなしくは帰らない」からである、と考えられます。

 

また、「バビロンの中から逃げ・・・よ」(8節)と言われているので、「人間から家畜に至るまで逃げ去った」(3節)、と考えることができます。

 

その場合、「バビロンの中から逃げ・・・よ」という神のことばは成就した、と言うことができます。

 

その6、に続きます。

エレミヤ書50章について その4

新改訳聖書』第3版のエレミヤ書51章62節(その3冒頭)に、次のように書かれています。
***
62節
よ。あなたはこの所について、これを滅ぼし、人間から獣に至るまで住むものがないようにし、永遠に荒れ果てさせる、と語られました』と言い、
***

 

1149965208さんは、「人間から獣に至るまで住むものがないように」される、という預言は「ずっと後になって実現したことになります」、と理解されています。2024/1/15 19:20のご回答の最後の段落(その1中ほど)をご参照ください。

 

バビロニア帝国がメディア・ペルシャ帝国によって滅ぼされてから「ずっと後になって実現したことになります」、ということです。

 

そうすると、エレミヤ書51章62節(上記冒頭)の、「・・・これ(=この所、すなわちバビロン)を滅ぼし、人間から獣に至るまで住むものがないようにし・・・」の部分は、「滅ぼし」と「住むものがない」を切り離して読むことになります。

 

同じ時代のことではない、ということです。

 

1149965208さんによりますと、「滅ぼし」ということと、「住むものがない」ということとの間には、長い期間があります。

 

「滅ぼし」は「多くの歴史家(は)がそれがBC539であったとしてい」(2024/1/15 19:20のご回答の第2段落)る時代のことであり、一方、「住むものがない」は「4世紀くらい」(同ご回答の最後の段落、その1中ほど)以降の時代のことです。

 

1149965208さんによりますと、エレミヤ書51章62節(上記冒頭)の、「・・・これ(=この所、すなわちバビロン)を滅ぼし、人間から獣に至るまで住むものがないようにし・・・」の「滅ぼし」と「住むものがない」は、同じ時代のことではないのであり、それらの間には長い期間があるのです。

 

エレミヤ書51章62節をそのようなものとして読んでよいのだろうか、という疑問が残ります。

 

例えば、エレミヤ書51章62節に書かれていることは、同書50章3節(その1冒頭)に書かれていることとよく似ています。

 

エレミヤ書50章3節(その1冒頭)は、次のようになっています。
***
3節
なぜなら、北から一つの国がここに攻め上り、この地を荒れ果てさせたからだ。ここには住む者もない。人間から家畜に至るまで逃げ去った。
***

 

エレミヤ書51章62節(上記冒頭)に書かれていることのうち、「人間から獣に至るまで住むものがないようにし、永遠に荒れ果てさせる」、の部分は、同書50章3節(上記、及びその1冒頭)に書かれている、「この地を荒れ果てさせたからだ。ここには住む者もない。人間から家畜に至るまで逃げ去った」、の部分と非常によく似ています。

 

違うのは、50章3節では、「獣」が「家畜」になっているという点と、「逃げ去った」という言葉が51章62節にはないという点と、51章62節にはある「永遠に」という言葉が50章3節にはない、という点です。

 

わたしは、この二つの節、すなわち、エレミヤ書50章3節と51章62節に書かれていることは、同じときのことであると考えています。

 

非常によく似ているからです。

 

50章3節に、「ここには住む者もない」とありますが、そのようになったのは、「その1」で述べたように、「北から一つの国がここに攻め上」ったからであると考えられます。

 

そのように読む場合は、「滅ぼし」(50章3節では「この地を荒れ果てさせた」が「滅ぼし」に当たると考えます)と「住む者もない」は、『同じとき』のことになります。

 

あくまでも、それらの二つの節に書かれていることが同じときのことであるという前提のもとで、ですが、50章3節をそのように読むとすると、51章62節の場合も、『同じとき』のこととして読むことになります。

 

エレミヤ書51章62節(上記冒頭)の、「滅ぼし」と「住むものがない」は、『同じとき』のことである、ということです。

 

しかし、エレミヤ書51章62節(上記冒頭)の、「滅ぼし」と「住むものがない」を切り離して、すなわち『同じとき』のことではない、ものとして読むことはできると思います。

 

そうするとあとは、エレミヤ書50章と51章のほかの記述との関連ではどうなるのか、ということになると思います。

 

その5、に続きます。

エレミヤ書50章について その3

新改訳聖書』第3版のエレミヤ書51章62節(その2冒頭)に、次のように書かれています。
***
62節
よ。あなたはこの所について、これを滅ぼし、人間から獣に至るまで住むものがないようにし、永遠に荒れ果てさせる、と語られました』と言い、
***

 

1行目から、「・・・あなたはこの所について、これを滅ぼし、人間から獣に至るまで住むものがないようにし、・・・」とあります。

 

「その2」で見たように、1149965208さんは、エレミヤ書50章と51章は、「全体的に『メディア・ペルシャ帝国がバビロニア帝国を滅ぼす』こと・・・について」の預言であると理解されています。2024/1/15 19:20の1149965208さんのご回答の、第4段落(その2後半)をご参照ください。

 

その第4段落の3行目から、「・・・全体的にメディア・ペルシャ帝国がバビロニア帝国を滅ぼすこと『(51:11)』について預言していました。・・・」とあります。

 

エレミヤ書51章11節が挙げられています。

 

新改訳聖書』第3版のエレミヤ書51章11節は、次のようになっています。
***
11節
  矢をとぎ、丸い小盾を取れ。
  はメディヤ人の王たちの霊を
  奮い立たせられた。
  主の御思いは、バビロンを滅ぼすこと。
  それはの復讐、その宮のための復讐である。
***

 

この節を見ると、『メディア・ペルシャ帝国がバビロニア帝国を滅ぼす』ことについての預言である、と読むことができるかのように見えます。

 

しかし2行目から、「はメディヤ人の王『たち』の霊を奮い立たせられた。・・・」とあります。

 

もしこの11節が、『メディア・ペルシャ帝国がバビロニア国を滅ぼす』ことについての預言であるとすると、そのときのメディヤ人の王は『ダリヨス』である、と言うことができると思います。ダニエル書5章31節をご参照ください。

 

もしそうだとすると、「はメディヤ人の『王』・・・の霊を奮い立たせられた」ということになり、「メディヤ人の『王たち』の霊を奮い立たせられた」ということにはならない、と言うことができます。

 

「メディヤ人の王たち」というのを、「メディア・ペルシャ国」の『王たち』と考えて、『ダリヨス』と『クロス』のことと考えることはできるだろうか、ということになります。

 

聖書では、『クロス』をエズラ記1章1節では「ペルシアの王」と言い、ダニエル書6章28節では「ペルシア人」と言っています。

 

一般財団法人日本聖書協会の聖書本文検索で、「キュロス」を検索した結果、キュロスが「メディヤ人の王」として記述されている箇所はありませんでした。

 

ペルシア人キュロス」「ペルシアの王キュロス」「バビロンの王キュロス」とあります。

 

「メディヤ人の王キュロス」というのはありませんでした。

 

クロス(新共同訳ではキュロス)はメディヤ人との関係があったとしても、『王』としては『ペルシャ人』である、と言うことができると思います。

 

ですから、『クロス』を、エレミヤ書51章11節の「メディヤ人の『王たち』」の中に含めてよいのかは疑問です。

 

わたしとしては、含めることはできないと思います。

 

詩篇12篇6節に、「のみことばは混じりけのないことば。土の炉で七回もためされて、純化された銀。」とあるように、「のみことば」は何度もためされた上でのことばである、と言うことができます。

 

のみことばは、何度もためされた上で用いられたことばです。

 

神が、『クロス』のことを、メディヤ人の王ではなく、『ペルシアの王』(エズラ1:1など)として聖書に記されたのも、「七回もためされ」た上で用いられたことばであると思います。

 

ですから、『クロス』を「メディヤ人の『王たち』」(エレミヤ51:11)の中に含めるのはどうかと思います。

 

いかがでしょうか。

 

その4、に続きます。

エレミヤ書50章について その2

新改訳聖書』第3版のエレミヤ書51章62節には、次のように書かれています。
***
62節
よ。あなたはこの所について、これを滅ぼし、人間から獣に至るまで住むものがないようにし、永遠に荒れ果てさせる、と語られました』と言い、
***

 

この62節の記述から、「この所について、これを滅ぼし、人間から獣に至るまで住むものがないようにし、永遠に荒れ果てさせる」、とは語られた、と言うことができます。

 

「この所」というのは、「バビロン」(61節など)のことです。

 

1行目から、「よ。あなたはこの所(すなわち、バビロン)について、これを滅ぼし、人間から獣に至るまで住むものがないようにし、・・・」とあります。

 

この記述から、は、「この所」すなわち「バビロン」に「人間から獣に至るまで住むものがないように」される、と言うことができます。

 

1149965208さんは、この「人間から獣に至るまで住むものがないように」される、という預言は「ずっと後になって実現したことになります」、と理解されています。2024/1/15 19:20のご回答の最後の段落(その1中ほど)をご参照ください。

 

その段落の最後で、「ですからエレミヤ51:52(62節だと思います)は、ずっと後になって実現したことになります」、とおっしゃっています。

 

「ずっと後になって」というのは、「バビロニア帝国が滅」んてからずっと後になって、ということです。2024/1/15 19:20の1149965208さんのご回答の第5段落、第6段落、および最後の段落(その1中ほど)、すなわち第7段落をご参照ください。

 

1149965208さんは、「人間から獣に至るまで住むものがないように」なるという預言は、「4世紀くらい」以降に実現したと理解されている、と言うことができます。2024/1/15 19:20のご回答の最後の段落(その1中ほど)をご参照ください。

 

つまり、1149965208さんは、エレミヤ書51章の預言は、カルデヤ人の王ベルシャツァルが殺されたときの預言であると理解されている、ということです。

 

2024/1/15 19:20の1149965208さんのご回答の、第4段落では、エレミヤ書51章だけではなく、50章の預言も、カルデヤ人の王ベルシャツァルが殺されたときの預言であると理解されている、ということが分かります。

 

その第4段落は、次のようになっています。
***
さてそれより70年ほど前(これはエルサレムの荒廃が70年だったという前提に基づいています。それよりもっと短かったという説もあります。)にエルサレムで活動していたエレミヤが書いたエレミヤ書の50章と51章の内容は、全体的にメディア・ペルシャ帝国がバビロニア帝国を滅ぼすこと(51:11)について預言していました。特に50:38や51:36は、上のヘロドトスが書いたメディア・ペルシャ連合軍の川を干上がらせる戦略について預言していると言われています。
***

 

1行目から、「さてそれより70年ほど前・・・にエルサレム活動していたエレミヤが書いたエレミヤ書の『50章と51章』の内容は、全体的にメディア・ペルシャ帝国がバビロニア帝国を滅ぼすこと(51:11)について預言していました。・・・」とあります。

 

「それより」というのは、「バビロニア帝国(一般の歴史では新バビロニア帝国」と呼ばれる)が一夜にして滅び」たときより、のことと言うことができると思います。2024/1/15 19:20の1149965208さんのご回答の第2段落をご参照ください。

 

第3段落では、バビロニア帝国(一般の歴史では「新バビロニア帝国」と呼ばれる)が滅んだときのことについて、ご説明を加えておられます。

 

つまり、「それより」というのは、第2段落と第3段落に書かれていることがあったときより、のことと言うことができます。

 

1149965208さんは、「エレミヤが書いたエレミヤ書の『50章と51章』の内容は、全体的に『メディア・ペルシャ帝国がバビロニア帝国を滅ぼす』こと・・・について預言していました」、とおっしゃっています。

 

つまり1149965208さんは、エレミヤ書50章と51章は、「全体的に『メディア・ペルシャ帝国がバビロニア帝国を滅ぼす』こと・・・について」の預言である、と理解しておられるのです。

 

言い換えると、エレミヤ書50章と51章の預言は、カルデヤ人の王ベルシャツァルが殺されて、バビロンが滅んだときの預言であると理解されている、ということです。

 

しかし、エレミヤ書50章と51章の預言は、「全体的にメディア・ペルシャ帝国がバビロニア帝国を滅ぼすこと(51:11)について」の預言である、言い換えると、カルデヤ人の王ベルシャツァルが殺されてバビロンが滅んだときの預言である、と言えるのでしょうか。

 

その3、に続きます。