エレミヤ書50章について その5

新改訳聖書』第3版のエレミヤ書50章1節から3節までに、次のように書かれています。
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1節
預言者エレミヤを通して、バビロンについて、すなわちカルデヤ人の国について語られたみことば。
2節
  「諸国の民の間に告げ、旗を掲げて知らせよ。
  隠さずに言え。
  『バビロンは捕らえられた。
  ベルははずかしめられ、
  メロダクは砕かれた。
  その像ははずかしめられ、
  その偶像は砕かれた。』
3節
なぜなら、北から一つの国がここに攻め上り、この地を荒れ果てさせたからだ。ここには住む者もない。人間から家畜に至るまで逃げ去った。
***

 

3節2行目から、「・・・人間から家畜に至るまで逃げ去った。」とあります。

 

「逃げ去った」という言葉から、3節に書かれていることは、エズラ記の時代に捕囚の民が帰還したときのことではない、と言うことができます。

 

捕囚の民が帰還したときには、バビロンから逃げて来たのではないからです。エズラ記1章をご参照ください。

 

3節には、「逃げ去っ『た』」とあるので、ここは、すでに終わったこと、または過去のこととして言われています。

 

この部分だけではなく、2節と3節は、すでに終わったこと、または過去のこととして言われています。

 

エレミヤ書50章8節から10節までに、次のように書かれています。
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8節
  バビロンの中から逃げ、カルデヤ人の国から出よ。
  群れの先頭に立つやぎのようになれ。
9節
  見よ。わたしが、大国の集団を奮い立たせて、
  北の地からバビロンに攻め上らせる。
  彼らはこれに向かって陣ぞなえをし、
  これを攻め取る。
  彼らの矢は、練達の勇士の矢のようで、
  むなしくは帰らない。
10節
  カルデヤは略奪され、
  これを略奪する者はみな満ち足りる。
  ―の御(み)告げ―
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8節に、「バビロンの中から逃げ、カルデヤ人の国から出よ。・・・」とあります。

 

3節に書かれていることとは違って、ここでは、「逃げ・・・『よ』」と言われています。

 

ここではまだ、「バビロンの中から逃げ」去ってはいません。

 

「バビロンの中から逃げ・・・『よ』」(8節)と言われているので「逃げ去っ『た』」(3節)、つまり、神のことばが成就した、と考えることができます。

 

その場合、「逃げ去った」(3節)者は神のことばに従った、と言うことができると思います。

 

ところで、「バビロンの中から逃げ・・・よ」と言われているのは、どうしてであると考えられるでしょうか。

 

9節1行目から、「見よ。わたしが、大国の集団を奮い立たせて、北の地からバビロンに攻め上らせる。・・・」とあります。

 

続いて、9節3行目から、「彼らはこれに向かって陣ぞなえをし、これを攻め取る。彼らの矢は、練達(れんたつ)の勇士の矢のようで、むなしくは帰らない。」とあります。

 

つまり、「わたしが、大国の集団を奮い立たせて、北の地からバビロンに攻め上らせ」、「彼らはこれに向かって陣ぞなえをし、これを攻め取」り、「彼らの矢は、練達(れんたつ)の勇士の矢のようで、むなしくは帰らない」ので、「バビロンの中から逃げ・・・よ」と言われているのではないでしょうか。

 

そのように考えることはできると思います。

 

また、「わたしが、大国の集団を奮い立たせて、北の地からバビロンに攻め上らせる」(9節)というのは、3節(上記冒頭)1行目の、「・・・北から一つの国がここに攻め上り・・・」のことである、と考えることができます。

 

「わたしが、大国の集団を奮い立たせて、北の地からバビロンに攻め上らせる」ので、「北から一つの国がここ(すなわち、バビロン)に攻め上」る、と考えることができます。

 

「バビロンの中から逃げ、カルデヤ人の国から出よ」(8節)と言われているのは、「わたしが、大国の集団を奮い立たせて、北の地からバビロンに攻め上らせ」、「彼らはこれに向かって陣ぞなえをし、これを攻め取」り、「彼らの矢は、練達(れんたつ)の勇士の矢のようで、むなしくは帰らない」からである、と考えられます。

 

また、「バビロンの中から逃げ・・・よ」(8節)と言われているので、「人間から家畜に至るまで逃げ去った」(3節)、と考えることができます。

 

その場合、「バビロンの中から逃げ・・・よ」という神のことばは成就した、と言うことができます。

 

その6、に続きます。