エレミヤ書50章について その14

新改訳聖書』第3版のエゼキエル書34章7節と8節(いずれも、その13前半)に、次のように書かれています。
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7節
それゆえ、牧者たちよ、のことばを聞け。
8節
わたしは生きている。―神である主の御(み)告げ―わたしの羊はかすめ奪われ、牧者がいないため、あらゆる野の獣のえじきとなっている。それなのに、わたしの牧者たちは、わたしの羊を捜し求めず、かえって牧者たちは自分自身を養い、わたしの羊を養わない。
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8節1行目から、「・・・わたしの羊はかすめ奪われ、牧者がいないため、『あらゆる野の獣のえじきとなっている』。・・・」とあります。

 

同じようなことが、エゼキエル書34章5節(その12前半)にも書かれています。次のようになっています。
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5節
彼らは牧者がいないので、散らされ、あらゆる野の獣のえじきとなり、散らされてしまった。
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「彼らは・・・『あらゆる野の獣のえじきとな・・・った』。」とあります。

 

「彼ら」というのは、「弱った羊」(4節、その12前半)などの『羊』(2節や3節)のこと、と言うことができると思います。

 

この『羊』というのは、上記8節の、「わたしの羊は・・・牧者がいないため、あらゆる野の獣のえじきとなっている」という記述から、『わたしの羊』のことと考えることができると思います。

 

5節には、「彼らは牧者がいないので、・・・あらゆる野の獣のえじきとな・・・った」とあり、これは8節の、「わたしの羊は・・・牧者がいないため、あらゆる野の獣のえじきとなっている」という記述とほぼ同じです。

 

5節と8節に書かれていることがほぼ同じである、ということから、5節の「彼ら」すなわち『羊』というのは、8節の『わたしの羊』のことであると考えることができると思います。

 

エレミヤ書50章17節(その10冒頭)に、次のように書かれています。
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17節
イスラエルは雄獅子に散らされた羊。先にはアッシリヤの王がこれを食らったが、今度はついに、バビロンの王ネブカデレザルがその骨まで食らった。
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イスラエル」が「雄獅子に散らされた羊」に、すなわち『羊』にたとえられています。

 

エゼキエル書34章5節(その12前半)に、「彼らは・・・散らされ、・・・散らされてしまった。」とあります。

 

「彼ら」というのは、「弱った羊」(エゼキエル34:4、その12前半)などの『羊』(2節や3節)のこと、と言うことができると思います。

 

エレミヤ書50章17節に、「イスラエルは雄獅子に『散らされた羊』。・・・」とあります。

 

このことばから、「イスラエル(言い換えると、羊)は『雄獅子に散らされた』」、と言うことができます。

 

エゼキエル書34章5節(その12前半)の「彼ら」、すなわち『羊』と同じです。

 

エレミヤ書50章17節(上記)の、「イスラエルは雄獅子に散らされた羊」と、エゼキエル書34章5節(その12前半)の、「彼らは・・・散らされ、・・・散らされてしまった」は、同じときのことを言っているのではないか、という考えが浮かびます。

 

上記エレミヤ書50章17節では続けて、「先にはアッシリヤの王がこれを『食らった』が、今度はついに、バビロンの王ネブカデレザルがその骨まで『食らった』。」とあります。

 

「アッシリヤの王」と「バビロンの王ネブカデレザル」が「雄獅子」にたとえられている、と読むことができると思います。

 

エレミヤ書50章17節(上記)では、「イスラエル(すなわち、羊)」は「雄獅子」に食われて『散らされた』、ということが言われているのではないでしょうか。

 

エゼキエル書34章5節(その12前半)に、次のように書かれています。
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5節
彼らは牧者がいないので、散らされ、あらゆる野の獣のえじきとなり、散らされてしまった。
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「彼ら(すなわち、羊)は・・・あらゆる野の獣の『えじきとなり』、散らされてしまった。」とあります。

 

『えじきとなった』は、『食われた』ことを意味する、と言うことができます。

 

そして、「雄獅子」は「野の獣」である、と言うことができます。

 

そうすると、上記エゼキエル書34章5節の、「彼ら(すなわち、羊)は・・・あらゆる野の獣のえじきとなり、散らされてしまった」というのは、上記エレミヤ書50章17節の、「イスラエルは雄獅子に散らされた羊」のことを言っているのではないか、という考えが浮かびます。

 

その15、に続きます。