『新改訳聖書』第3版のエレミヤ書50章17節(その9後半)に、次のように書かれています。
***
17節
イスラエルは雄獅子に散らされた羊。先にはアッシリヤの王がこれを食らったが、今度はついに、バビロンの王ネブカデレザルがその骨まで食らった。
***
1行目に、「イスラエルは雄獅子に散らされた羊。・・・」とあります。
「イスラエル」が「雄獅子に散らされた羊」にたとえられています。
エレミヤ書50章6節(その8前半)では、「わたしの民」が「迷った羊の群れ」にたとえられています。
「イスラエルは雄獅子に散らされた羊。」に続いて、「先にはアッシリヤの王がこれを食らったが、今度はついに、バビロンの王ネブカデレザルがその骨まで食らった。」とあります。
この上記冒頭17節の記述から、「雄獅子」というのは、「アッシリヤの王」のことであり、また「バビロンの王ネブカデレザル」のことである、と読むことができると思います。
つまり、「アッシリヤの王」と「バビロンの王ネブカデレザル」が「雄獅子」にたとえられている、ということです。
そして、「イスラエルは雄獅子に『散らされた』羊。・・・」とあります。
「イスラエル」はアッシリヤの王に『散らされた』羊であり、「バビロンの王ネブカデレザル」に『散らされた』羊である、と考えることができると思います。
エゼキエル書34章6節(その8中ほど)に、次のように書かれています。
***
6節
わたしの羊はすべての山々やすべての高い丘をさまよい、わたしの羊は地の全面に散らされた。尋ねる者もなく、捜す者もない。
***
1行目から、「・・・わたしの羊は地の全面に『散らされた』。・・・」とあります。
これは、上記冒頭エレミヤ書50章17節の、「雄獅子に『散らされた』羊」のことを言っているのではないでしょうか。
もしそうであるとすると、「・・・わたしの羊(は)が地の全面に散らされた・・・」(エゼキエル34:6、上記)のは、「アッシリヤの王」によってであり、また、「バビロンの王ネブカデレザル」によってである、と考えることができると思います。
上記エゼキエル書34章6節直前の5節に、次のように書かれています。
***
5節
彼らは牧者がいないので、散らされ、あらゆる野の獣のえじきとなり、散らされてしまった。
***
「雄獅子」は「野の獣」である、と言うことができます。
「野の獣のえじきとな・・・った」というのは、例えば、「雄獅子」に食われた、ということと考えることができるのではないでしょうか。
そのように考えることができるとすると、「彼ら」(上記5節)すなわち「羊たち」は、例えば、「雄獅子」に食われた、と考えることができます。
そうすると、「彼ら(すなわち、羊たち)は・・・あらゆる野の獣のえじきとなり、散らされてしまった」(上記5節)は、「彼ら(すなわち、羊たち)は・・・あらゆる野の獣、例えば、雄獅子に食われて、散らされてしまった」、と言うことができると思います。
さらに、「雄獅子に食われて、散らされてしまった」は、「アッシリヤの王」や「バビロンの王ネブカデレザル」に「食われて、散らされてしまった」、と考えることができます。
もしそうであるとするなら、上記エゼキエル書34章6節の、「・・・わたしの羊(は)が地の全面に散らされた・・・」のは、「アッシリヤの王」によってであり、また、「バビロンの王ネブカデレザル」によってである、と考えることができると思います。
その11、に続きます。