エレミヤ書50章について その9

新改訳聖書』第3版のエゼキエル書34章6節(その8中ほど)に、次のように書かれています。
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6節
わたしの羊はすべての山々やすべての高い丘をさまよい、わたしの羊は地の全面に散らされた。尋ねる者もなく、捜す者もない。
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この6節の、「わたしの羊」は「さまよ(っ)・・・た」と、エレミヤ書50章6節(その8前半)の、「わたしの民は迷った羊の群れであった」、は似ていますが、それだけではなく、この6節の、「わたしの羊はすべての『山々』やすべての高い『丘』をさまよ(っ)・・・た」と、エレミヤ書50章6節の、「彼らは『山』から『丘』へと行(ゆ)き巡っ・・・た」、も似ています。

 

上記エゼキエル書の「『山々』や・・・『丘』を」と、エレミヤ書の「『山』から『丘』へと」が似ています。

 

また、上記エゼキエル書の「さまよった」と、エレミヤ書の「行(ゆ)き巡った」は似ていると思います。

 

どちらも、あちらこちらに行(ゆ)くことを意味している、と言うことができるからです。

 

以上「その8」から述べて来たように、エゼキエル書34章6節(上記冒頭)と、エレミヤ書50章6節(その8前半)とが似ていることから、両者は同じときのことではないか、と考えることができます。

 

エレミヤ書50章7節(その8前半)に、次のように書かれています。
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7節
彼らを見つける者はみな彼らを食らい、敵は『私たちには罪がない。彼らが、正しい牧場(まきば)である、彼らの先祖の望みであったに、罪を犯したためだ』と言った。
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「彼ら」というのは、50章6節(その8前半)の「わたしの民」または「迷った羊の群れ」のこと、と言うことができます。

 

1行目の、「彼らを見つける者はみな彼らを食らい、・・・」は、「『わたしの民』を見つける者はみな『わたしの民』を食らい、・・・」というようになります。

 

エレミヤ書50章17節に、次のように書かれています。
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17節
イスラエルは雄獅子に散らされた羊。先にはアッシリヤの王がこれを食らったが、今度はついに、バビロンの王ネブカデレザルがその骨まで食らった。
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この17節の記述から、上記エレミヤ書50章7節の、「彼ら(すなわち、わたしの民など)を見つける者・・・」というのは、「アッシリヤの王」のことではないか、また「バビロンの王ネブカデレザル」のことではないか、と考えることができると思います。

 

上記7節には、「彼らを見つける者はみな彼らを『食ら・・・った』」とあり、17節には、「先にはアッシリヤの王がこれを『食らった』が、今度はついに、バビロンの王ネブカデレザルがその骨まで『食らった』」、とあるからです。

 

その10、に続きます。