「契約」について その5

新改訳聖書』第3版のエレミヤ書32章37節(その4冒頭)に、次のように書かれています。
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37節
「見よ。わたしは、わたしの怒りと、憤りと、激怒とをもって散らしたすべての国々から彼らを集め、この所に帰らせ、安らかに住まわせる。
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1行目から、、「・・・わたしは、わたしの怒りと、憤りと、激怒とをもって散らしたすべての国々から彼らを集め・・・る。」とあります。

 

このことばから、『彼ら』というのは、「わたし」が「わたしの怒りと、憤りと、激怒とをもって」『すべての国々』に「散らした」人々のことである、ということが分かります。

 

『すべての国々』と言っても、それは「『散らした』すべての国々」、のことです。

 

「散らしたすべての国々から」というのは、「『散らした国々』のすべてから」、と読むことができます。

 

もしも散らされていない国があれば、言うまでもなく、その国は対象外となります。

 

その国から集める、ということにはなりません。

 

「散らした『すべての国々』から彼らを集め・・・る」、ということから、この37節(上記冒頭)で言われていることは、エズラ記の時代に、捕囚の民が帰還したときのことではない、と言うことができます。

 

上記冒頭32章37節2行目の、「・・・彼らを集め・・・」ということばだけを見ると、エズラ記の時代に、捕囚の民が帰還したときのことであるかのように考えられなくもない、と思います。

 

しかし、「わたしの怒りと、憤りと、激怒とをもって散らした『すべての国々から』彼らを集め」る、とあるので、これは、エズラ記の時代に、捕囚の民が帰還したときのことではない、と言うことができます。

 

エズラ記の時代に捕囚の民が帰還したのは、散らされた『すべての国々から』ではなく、バビロン『一国から』だからです。

 

したがって、エレミヤ書32章37節(上記冒頭)に書かれていることは、エズラ記の時代に、捕囚の民が帰還したときのことではない、と言うことができるのです。

 

そうすると、37節の『彼ら』というのは、エズラ記の時代にバビロンから帰還した『捕囚の民』のことではない、ということになります。

 

エレミヤ書32章37節(上記冒頭)に続いて、38節に、次のように書かれています。
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38節
彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。
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37節と38節の文脈から、「彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる」(38節)のは、「わたしは、わたしの怒りと、憤りと、激怒とをもって散らした『すべての国々から』彼らを集め、この所に帰らせ、安らかに住まわせる」(37節)とき、もしくは、そのとき以降のことであると考えられます。

 

つまり、「わたしは、わたしの怒りと、憤りと、激怒とをもって散らした『すべての国々から』彼らを集め、この所に帰らせ、安らかに住まわせる」(37節)とき、もしくは、そのとき以降に、「彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる」(38節)、ということです。

 

そして38節の『彼ら』と37節の『彼ら』は同じである、と言うことができます。

 

37節の『彼ら』は、上で述べたように、エズラ記の時代にバビロンから帰還した『捕囚の民』のことではない、と言うことができます。

 

そうすると、上記38節の『彼ら』も、エズラ記の時代にバビロンから帰還した『捕囚の民』のことではない、ということになります。

 

そうであるとすると、38節の、「彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる」のは、エズラ記の時代に捕囚の民が帰還したときのことではない、ということになります。

 

上記38節の『彼ら』は、エズラ記の時代にバビロンから帰還した『捕囚の民』のことではない、と言うことができるからです。

 

このように、上記冒頭エレミヤ書32章37節と上記38節に書かれていることは、『彼ら』というのがエズラ記の時代にバビロンから帰還した『捕囚の民』のことではない、ということから、エズラ記の時代のことではない、と言うことができます。

 

その6、に続きます。