「神殿」について その15

新改訳聖書』第3版のエゼキエル書37章24節と25節に、次のように書かれています。
***
24節
わたしのしもべダビデが彼らの王となり、彼ら全体のただひとりの牧者となる。彼らはわたしの定めに従って歩み、わたしのおきてを守り行う。
25節
彼らは、わたしがわたしのしもべヤコブに与えた国、あなたがたの先祖が住んだ国に住むようになる。そこには彼らとその子らとその子孫たちとがとこしえに住み、わたしのしもべダビデが永遠に彼らの君主となる。
***

 

24節に、「わたしのしもべダビデが彼らの王となり、彼ら全体のただひとりの牧者となる。・・・」とあり、25節3行目から、「・・・わたしのしもべダビデが永遠に彼らの君主となる。」とあります。

 

「彼らの王」(24節)の「彼ら」というのは、エゼキエル書37章21節と22節と23節の「彼ら」と同じで、21節(その8冒頭)2行目の、「イスラエル人・・・」のこと、と言うことができます。

 

25節1行目から、「・・・『あなたがた』の先祖が住んだ国・・・」とあります。

 

この『あなたがた』というのは、「神である主」(21節)が語りかけているエゼキエルたちのことで、バビロンにいる捕囚の民のことと考えられます。

 

「『彼ら』(すなわち、21節2行目のイスラエル人)は・・・『あなたがた』の先祖が住んだ国に住むようになる」、ということが言われています。

 

「『あなたがた』の先祖が住んだ国」というのは、「わたしがわたしのしもべヤコブに与えた国」(25節)のこと、つまり、イスラエルの国のことと思われます。

 

上記24節と25節から引用したことばより、24節と25節に書かれていることは、エズラ記の時代のことではない、ということが決定的になります。

 

エズラ記の時代に、「わたしのしもべダビデが彼らの王とな」ったことはなく、「わたしのしもべダビデが永遠に彼らの君主とな」ったことはないからです。

 

この「ダビデ」がダビデ本人であるのか、それとも、そうでないのかについては、もう少し考えてから判断します。

 

現時点では判断できる材料がありません。

 

もし、この「ダビデ」がダビデ本人であるとすると、それは復活したダビデである、ということになります。

 

24節と25節に書かれていることから、そこに書かれていることはエズラ記の時代のことではない、ということが決定的になります。

 

そして「彼ら」というのが、21節の「イスラエル人」のことであって、21節から25節まで同じであるとすると、21節から23節までに書かれていることも、エズラ記の時代のことではない、ということが決定的になります。

 

その「彼ら」というのは、「わたしのしもべダビデが彼らの王とな」(24節)る時代の「イスラエル人」のことである、ということになるからです。

 

その16、に続きます。