『新改訳聖書』第3版のエレミヤ書7章22節から24節まで(その21後半)の記述から、エジプトを出て来たイスラエルの民は、「わたしのおきてに従って歩み、わたしの命令を守り、それらを行う」(レビ記26章3節)ことはなかった、と言うことができると思います。
つまり、エジプトを出て来たイスラエルの民は、レビ記26章3節(その20終わりのほう)に書かれている「条件」を満たすことはできなかった、ということです。
それは、当時のイスラエルの民は、『肉にある者』(ローマ8:8)だったからである、と考えられます。
それに対し、エゼキエル書37章24節(その15冒頭)には、次のように書かれています。
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24節
わたしのしもべダビデが彼らの王となり、彼ら全体のただひとりの牧者となる。彼らはわたしの定めに従って歩み、わたしのおきてを守り行う。
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2行目から、「・・・彼らはわたしの定めに従って歩み、わたしのおきてを守り行う。」とあります。
つまり、「わたしのしもべダビデが彼らの王とな」る時代には、「彼らはわたしの定めに従って歩み、わたしのおきてを守り行う」、ということです。
そして「彼ら」というのは、エゼキエル書37章21節(その18中ほど)2行目の『イスラエル人』のことであり、この『イスラエル人』は「墓から引き上げ」(37章12節と13節)られ、「生き返」(同章14節)った人々であると考えられます。「その18」と「その19」、及び「その20前半」をご参照ください。
この人々は、『肉にある者』(ローマ8:8)ではないと思います。
『肉にある者』だとすると、『肉の思い』を持つと考えられるので、神の律法に服従することはできない、ということになります。ローマ人への手紙8章7節をご参照ください。
神の律法に服従することができないとすると、「わたしの定めに従って歩み、わたしのおきてを守り行う」ことはできないのです。
「わたしのしもべダビデが彼らの王とな」(エゼキエル37:24、上記前半)る時代の『イスラエル人』は、それができるので、『肉にある者』(ローマ8:8)ではない、と考えられます。
コリント人への手紙 第二6章16節(その20中ほどか、後半)に、次のように書かれています。
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16節
神の宮と偶像とに、何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。神はこう言われました。
「わたしは彼らの間に住み、また歩む。
わたしは彼らの神となり、
彼らはわたしの民となる。
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1行目から、「・・・私たちは生ける神の『宮』なのです。・・・」とあります。
その23、に続きます。