『新改訳聖書』第3版のエゼキエル書37章23節(その11冒頭)に、次のように書かれています。
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23節
彼らは二度と、その偶像や忌まわしいもの、またあらゆるそむきの罪によって身を汚さない。わたしは、彼らがかつて罪を犯したその滞在地から彼らを救い、彼らをきよめる。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。
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2行目から、「・・・わたしは、彼らがかつて罪を犯したその滞在地から彼らを救い、彼らをきよめる。『彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。』」とあります。
「わたし」というのは、37章21節の、「・・・神である主・・・」のこと、と言うことができます。
エゼキエル書37章26節と27節(いずれも、その5冒頭)に、次のように書かれています。
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26節
わたしは彼らと平和の契約を結ぶ。これは彼らとのとこしえの契約となる。わたしは彼らを*かばい、彼らをふやし、わたしの聖所を彼らのうちに永遠に置く。
* エゼ一七・一七による
ヘ「与え」
27節
わたしの住まいは彼らとともにあり、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
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27節に、「・・・わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」とあります。
この「わたし」も、37章21節の、「・・・神である主・・・」のこと、と言うことができます。
順番は違いますが、上記冒頭23節の、『彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる』、と同じことが書かれています。
26節2行目から、「・・・わたしは・・・わたしの聖所を彼らのうちに永遠に置く。」とあり、27節に、「わたしの住まいは彼らとともにあ・・・る。」とあります。
「わたしの聖所を彼らのうちに永遠に置」き、「わたしの住まい(は)が彼らとともにあ・・・る」のは、「わたしは、彼らがかつて罪を犯したその滞在地から彼らを『救い』、彼らを『きよめる』」(上記冒頭37章23節)からではないでしょうか。
「彼らがかつて罪を犯したその滞在地」ということばから、「彼ら」はその滞在地でかつて罪を犯した、ということが分かります。
だから、「わたし」は『救う』、ということになると思います。
そして、『救う』ときに、あるいは、『救って』から「彼らを『きよめる』」、と思われます。
また、「わたしの聖所を彼らのうちに永遠に置」き、「わたしの住まい(は)が彼らとともにあ・・・る」のは、「彼らは二度と、その偶像や忌まわしいもの、またあらゆるそむきの罪によって身を汚さない」(37章23節、上記冒頭)からではないでしょうか。
つまり、「彼らは『二度と』、その偶像や忌まわしいもの、またあらゆるそむきの罪によって身を汚さ」ず、「わたしは、彼らがかつて罪を犯したその滞在地から彼らを『救い』、彼らを『きよめる』」ので、「・・・わたしは・・・わたしの聖所を彼らのうちに永遠に置く」ことができ、また「わたしの住まいは彼らとともにあ・・・る」ようになることができる、ということです。
こうして、『彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる』(23節)のであり、また、『わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる』(27節)のである、ということだと思います。
「わたしの聖所を彼らのうちに『永遠に』置く」ことができるのは、「彼ら(は)が『二度と』、その偶像や忌まわしいもの、またあらゆるそむきの罪によって『身を汚さない』」(37章23節、上記冒頭)からだと思います。
この場合の「聖所」は、言うまでもなく、ソロモンの神殿のような神殿に置かれる聖所ではありません。
「彼ら」のうちに、すなわち「イスラエル人」という『人々』のうちに置かれる「聖所」です。
エペソ人への手紙2章22節(その2冒頭)の場合は、『キリストにある』者たちが「主にある聖なる宮(すなわち、神殿)」(エペソ2:21)となります。
エズラ記の時代のイスラエル人のうちに、「わたしの聖所を・・・永遠に置く」ことはできないのです。
なぜなら、エズラ記の時代のイスラエル人は、再び、『そむき』の罪を犯したからです。エズラ記10章13節(その12中ほど)をご参照ください。
つまり、エズラ記の時代のイスラエル人は『神殿』にはなっていない、ということです。
しかし、エズラ記の時代には、『そむき』の罪を犯さなかった人々もいます。
そのような人々については、どのように考えたらよいでしょうか。
それについては、改めて述べようと思います。長くなるからです。
エズラ記の時代のイスラエル人は『神殿』にはなっていないのに対して、エゼキエル書37章26節(上記)で言われている時代には、「彼ら」は『神殿』になっている、ということになります。
そうだとすると、「彼ら」すなわち、37章21節の「イスラエル人」は、『キリストにある』者なのでしょうか。
これについては、引き続き考えます。
その14、に続きます。