「罪」について その2

新改訳聖書』第3版のエゼキエル書14章9節から11節までに、次のように書かれています。
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9節
もし預言者が惑わされて、ことばを語るなら、―あるわたしがその預言者を惑わしたのである―わたしは彼に手を伸ばして、わたしの民イスラエルのうちから彼を根絶やしにする。
10節
こういう者たちは、自分たちの咎を負う。この預言者の咎は、尋ね求めた者の咎と同じである。
11節
それは、イスラエルの家が、二度とわたしから迷い出ず、重ねて自分たちのそむきの罪によって自分自身を汚さないためであり、彼らがわたしの民となり、わたしも彼らの神となるためである。―神である主の御告げ―」
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9節に、「もし預言者が惑わされて、ことばを語るなら、・・・わたしは彼に手を伸ばして、わたしの民イスラエルのうちから彼を根絶やしにする。」とあります。

 

「惑わされて、ことばを語る」預言者は、「わたしの民イスラエル」のうちから根絶やしにされる、ということが書かれています。

 

11節の「それは」は、何を指しているのか、ですが、「こういう者たちは、自分たちの咎を負う」(10節)のは、のことと考えられます。

 

また、「わたしは彼(すなわち、惑わされて、ことばを語る預言者)に手を伸ばして、わたしの民イスラエルのうちから彼を根絶やしにする」(9節)のは、のこととも考えられます。

 

おそらく、その両方を指しているのではないかと思われます。

 

つまり、イスラエルの家が、二度とわたしから迷い出ず、重ねて自分たちのそむきの罪によって自分自身を汚さないために、また、彼らがわたしの民となり、わたしも彼らの神となるために、こういう者たちは、自分たちの咎を負うのであり、わたしは彼(すなわち、惑わされて、ことばを語る預言者)に手を伸ばして、わたしの民イスラエルのうちから彼を根絶やしにするのである、という文脈になると考えられます。

 

11節に、「それは、イスラエルの家が、『二度と』わたしから迷い出ず、重ねて自分たちのそむきの罪によって自分自身を汚さないためであり、彼らがわたしの民となり、わたしも彼らの神となるためである。・・・」とあります。

 

これは、エゼキエル書37章23節(その1「2021-09-01」、冒頭)の、「彼らは『二度と』、・・・あらゆるそむきの罪によって身を汚さない」、のことであり、「彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる」のことではないか、と思われます。

 

もしそうだとすると、エゼキエル書14章9節から11節までに書かれていることは、現在よりも先の、未来のことになります。「その1」(2021-09-01)をご参照ください。

 

いかがでしょうか。どのように思われますか。