「神となる」について その5

新改訳聖書』第3版のエゼキエル書37章23節に、次のように書かれています。
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37章23節
彼らは二度と、その偶像や忌まわしいもの、またあらゆるそむきの罪によって身を汚さない。わたしは、彼らがかつて罪を犯したその滞在地から彼らを救い、彼らをきよめる。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。
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2行目から、「・・・わたしは、・・・彼らをきよめる。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。」とあります。「彼らがきよめられる」、ということが、「彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる」ということと関係がある、と考えられます。

 

これを思わせることが、同書36章25節に書かれています。続けて26節に、次のように書かれています。
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25節
わたしがきよい水をあなたがたの上に振りかけるそのとき、あなたがたはすべての汚れからきよめられる。わたしはすべての偶像の汚れからあなたがたをきよめ、
26節
あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたの*からだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。

* あるいは「肉」

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25節と26節の前後関係、すなわち、25節が先の出来事なのか、あるいは、26節が先の出来事なのかは、今のところ何とも言えませんが、両節は関係がある、ということは言えると思います。

 

つまり、「あなたがたはすべての汚れからきよめられ」(25節)たあとに、「新しい心(を)が与え」られ、「新しい霊(を)が授け」られるのか、あるいは、「あなたがたに新しい心(を)が与え」られ、「あなたがたのうちに新しい霊(を)が授け」(26節)られたあとに、「あなたがたはすべての汚れからきよめられ」るのかは、今のところ何とも言えません。しかし、25節と26節には関係がある、ということは言えると思います。

 

25節に、「あなたがたは・・・きよめられる」、と書かれていて、そのあと、28節に、「・・・あなたがたはわたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる。」という記述があります。

 

つまり、「あなたがたはわたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる」という記述の前に、「あなたがたは・・・きよめられる」という記述があります。これらの二つの記述には、関係があると思います。そして、文脈からすると、「あなたがた」が「きよめられ」た『あと』に、「あなたがたはわたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる」、のではないかと思われます。37章23節に書かれていることと一致する、と言うことができると思います。

 

その6、に続きます。