「神となる」について その6

新改訳聖書』第3版のエゼキエル書37章23節に、「彼らは二度と、その偶像や忌まわしいもの、またあらゆるそむきの罪によって身を汚さない。・・・」と書かれています。

 

「彼らは『二度と』、その偶像や忌まわしいもの、またあらゆるそむきの罪によって身を『汚さない』・・・」とあります。

 

同章22節に、次のように書かれています。
***
37章22節
わたしが彼らを、その地、イスラエルの山々で、一つの国とするとき、ひとりの王が彼ら全体の王となる。彼らはもはや二つの国とはならず、もはや決して二つの王国に分かれない。
***

 

この22節のあと、23節に、「彼らは『二度と』、その偶像や忌まわしいもの、またあらゆるそむきの罪によって身を『汚さない』・・・」という記述があります。この記述は、22節の「わたしが彼らを、その地、イスラエルの山々で、一つの国とするとき、ひとりの王が彼ら全体の王となる。」という記述と関係がある、と言うことができると思います。

 

そしてこの22節の記述の前、21節に、次のように書かれています。
***
37章21節
彼らに言え。神である主はこう仰せられる。見よ。わたしは、イスラエル人を、その行(い)っていた諸国の民の間から連れ出し、彼らを四方から集め、彼らの地に連れて行(い)く。
***

 

これは、「その3」で引用した、36章24節の「わたしはあなたがたを諸国の民の間から連れ出し、すべての国々から集め、あなたがたの地に連れて行(い)く。」とよく似ています。

 

36章では、この24節の記述のあと、28節に、「・・・あなたがたはわたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる。」と書かれています。

 

同じように、37章でも、21節の記述のあと、23節に、「彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。」と書かれています。

 

「わたしは・・・神となる」という記述に関して、36章と37章に書かれていることは、「同じとき」のことではないか、と思われます。

 

「彼らは『二度と』・・・身を『汚さない』・・・」(エゼ37:23)とあるので、これ以降は、「その偶像や忌まわしいもの」で身を汚すことは無く、「そむきの罪」を犯すことも無い、と考えられます。

 

このようなことができるのは、「彼ら」に「新しい霊」が授けられ、「彼ら」がそれに従って歩むことができ、また、「彼ら」が「肉体を離れて」(Ⅱコリ5:8)いるからではないか、と思いますが、いかがでしょうか。