イザヤ書53章について その3

「彼の時代の者」(イザヤ53:8)は、単に、「彼」は死刑に当たるので、十字架にかけられた、というようにしか思わなかったのではないでしょうか。

 

新改訳聖書』第3版のイザヤ書53章8節(その1、前半)3行目から、「彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ・・・たことを。」とあります。「彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ・・・たことを」、「彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。」という文脈になります。

 

イザヤ書53章12節に、次のように書かれています。
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53章12節
 それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、
 彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。
 彼が*自分のいのちを死に明け渡し、
 そむいた人たちとともに数えられたからである。
 彼は多くの人の罪を負い、
 そむいた人たちのためにとりなしをする。

 

* あるいは「自分自身を」

 

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5行目から、「彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。」とあります。

 

ペテロの手紙 第一2章24節に、次のように書かれています。
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2章24節
そして自分から*十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。

 

* あるいは「十字架に至るまで」

 

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1行目から、「・・・自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。・・・」とあります。主語は、22節の「キリストは」、です。キリストは、自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました、となります。「十字架の上で」という言葉から、この「キリスト」は「イエス」である、ということが分かります。

 

イザヤ書53章12節下から2行目の、「彼は多くの人の罪を負い、」というのは、イエスが「私たちの罪をその身に負われ」(Ⅰペテ2:24)た、ということを言っていると思われます。それ以外には考えられないと思います。

 

「彼は多くの人の罪を負い」の「多くの人」の中には、マタイ福音書26章65節と66節(その2、中ほど)の「大祭司」や「彼ら」も含まれる、と言うことができるのではないでしょうか。

 

「大祭司」や「彼ら」も、イエスを信じるなら、その罪が赦される者であり、そのために、すなわち、その罪が赦されるためにイエスは、「大祭司」や「彼ら」の罪をもその身に負われたのに、「大祭司」や「彼ら」は、そのことを、思ってもみなかった、ということになると思われますが、いかがでしょうか。

 

エスが、「わたしの民」(イザヤ53:8)、すなわち「大祭司」や「彼ら」などの「そむきの罪のために打たれ」(同)た、ということは、ユダヤ人には、思いもよらないことだったと思います。

 

その4、に続きます。