『新改訳聖書』第3版のへブル人への手紙10章10節(その11中ほど)に、次のように書かれています。
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10節
このみこころに従って、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです。
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また、同章14節(その11後半)に、次のように書かれています。
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14節
キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全(まっと)うされたのです。
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「律法は、年ごとに絶えずささげられる同じいけにえによって神に近づいて来る人々を、完全にすることができないのです」(ヘブル10:1、その10前半)が、「キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全(まっと)うされたのです」、と言うことができると思います。
また、キリストは「年ごとに絶えずささげられる同じいけにえによって神に近づいて来る人々」のうち、「聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全(まっと)うされたのです」、と言うことができると思います。
「全(まっと)うされた」というのは、「完全にされた」ということではないでしょうか。
上記14節の、「一つのささげ物」とは、何でしょうか。
「イエス・キリストの『からだ』」(10節、上記冒頭)ではないでしょうか。
「一つのささげ物によって」(14節)、すなわち、「イエス・キリストの『からだ』が、ただ一度だけささげられた」(10節)ことによって、「キリストは聖なるものとされる人々を、・・・永遠に全(まっと)うされた」、と言うことができると思います。
神は、「イエス・キリストの『からだ』」を「ただ一度だけささげ」させることによって、「(御子の)肉において罪を処罰された」、のではないでしょうか。
そして、「イエス・キリストの『からだ』が、ただ一度だけささげられた」(10節、上記冒頭)のは、十字架の上でのことです。
ペテロの手紙 第一2章22節から24節までに、次のように書かれています。
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22節
キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。
23節
ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。
24節
そして自分から*十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。
* あるいは「十字架に至るまで」
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24節に、「・・・自分から*十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。・・・」とあります。
ローマ人への手紙8章3節(その9前半、その11冒頭)2行目から、「・・・神はご自分の御子(みこ)を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。」とあります。
キリストは「十字架の上で、私たちの罪を『その身』に負われ」、十字架の上での死によって、すなわち、ご自分の「『からだ』が、ただ一度だけささげられた」(ヘブル10:10)ことによって、「神は・・・『肉』において罪を処罰された」、のではないでしょうか。
その13、に続きます。