『新改訳聖書』第3版のローマ人への手紙8章3節(その9前半)に、「・・・律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました・・・」、と書かれています。
「律法にはできなくなっていること」、とあります。
これは、どのようなことであると考えられるでしょうか。
『新改訳聖書』第3版のへブル人への手紙10章1節に、次のように書かれています。
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1節
律法には、後(のち)に来るすばらしいものの影はあっても、その実物はないのですから、律法は、年ごとに絶えずささげられる同じいけにえによって神に近づいて来る人々を、完全にすることができないのです。
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2行目から、「・・・律法は、年ごとに絶えずささげられる同じいけにえによって神に近づいて来る人々を、完全にすることができないのです。」とあります。
これは、「律法にはできなくなっていること」、と言うことができると思います。
律法は、そのような人々を、『完全にすることができない』、ということが、「律法にはできなくなっていること」、と言うことができると思います。
1節に続いて、2節から4節までに、次のように書かれています。
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2節
もしそれができたのであったら、礼拝する人々は、一度きよめられた者として、もはや罪を意識しなかったはずであり、したがって、ささげ物をすることは、やんだはずです。
3節
ところがかえって、これらのささげ物によって、罪が年ごとに思い出されるのです。
4節
雄牛とやぎの血は、罪を除くことができません。
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4節に、「雄牛とやぎの血は、罪を除くことができません。」とあります。
「罪が・・・思い出される」、ということは、「罪を意識」するということである、と言うことができると思います。
「これらのささげ物によって、罪が年ごとに思い出される」ということが、罪は除かれていない、ということではないかと思われます。
また、罪は除かれていない、というのは、「私のうちに」罪が「住みついている」(ローマ7:17)ということではないでしょうか。
へブル人への手紙10章4節(上記)の、「雄牛とやぎの血は、罪を除くことができ」ない、ということも、「律法にはできなくなっていること」、と言うことができると思います。
そして、「雄牛とやぎの血は、罪を除くことができ」ないので、「律法は、年ごとに絶えずささげられる同じいけにえによって神に近づいて来る人々を、完全にすることができないのです」(へブル10章1節、上記前半)、ということになると思います。
まとめると、「律法にはできなくなっていること」(ローマ8:3、その9前半)、というのは、
①「年ごとに絶えずささげられる同じいけにえによって神に近づいて来る人々を、完全にすることができない」ということ、
②「雄牛とやぎの血は、罪を除くことができ」ないということ、
と考えられます。
その11、に続きます。