『新改訳聖書』第3版のマタイの福音書9章5節(その2冒頭、及びその1冒頭)に、次のように書かれています。
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5節
『あなたの罪は*赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらがやさしいか。
* 直訳「赦されている」
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「言う」ということだけに限って言えば、どちらも「やさしい」、のではないでしょうか。
しかしどちらであっても、すなわち、『あなたの罪は赦されている』と言う場合であっても、また『起きて歩け』と言う場合であっても、言うだけでは、「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていること」を、律法学者たちに「知らせる」ことはできないと思います。
そこでイエスは、中風(ちゅうぶ)の人に、「起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい」(6節、その2冒頭及びその1冒頭)と言われた、のだと思います。
イエスが中風(ちゅうぶ)の人に、「起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい」と言われると、「彼(すなわち、中風の人)は起きて家に帰」りました。マタイの福音書9章6節と7節(いずれも、その1冒頭)をご参照ください。
「群衆はそれを見て恐ろしくなり」、「こんな権威を*人(あるいは、人々)にお与えになった神をあがめ」ました。マタイの福音書9章8節(その1冒頭)をご参照ください。
この9章8節の記述から、「群衆」は「こんな権威」がイエスにあることを知り、そしてその権威は、神がお与えになった、と考えています。
「群衆」は、「こんな権威」を『神』がお与えになったことを認めています。
『起きて歩け』と言われただけではなく、そう言われると、実際に歩いたので、「群衆」は「こんな権威」がイエスにあることを知った、と言うことができると思います。
この出来事によって、「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていること」も知ったのではないかと思います。
この出来事に対する、『律法学者たち』の反応については書かれていません。
しかし、この出来事によって、「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていること」を、『律法学者たち』も『知る』ことはできた、かもしれません。
「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがた(すなわち、律法学者たち)に知らせるために」、イエスが中風(ちゅうぶ)の人に、『あなたの罪は赦されている』と言われただけでは、律法学者たちがそのこと知ることはありませんでした。
「起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい」と言われて、「彼(すなわち、中風の人)は起きて家に帰」ったのを見て、「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていること」を、『知った』かもしれません。
『あなたの罪は赦されている』と言われたときには、『知る』ことはありませんでしたが、『起きて歩け』と言われて中風(ちゅうぶ)の人が「起きて家に帰」ったときには、『知る』ことができたかもしれません。
『起きて歩け』と言われて中風(ちゅうぶ)の人が「起きて家に帰」ったときに『知る』ことができたとすると、「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを・・・知らせるために」は、『起きて歩け』と言うほうが「やさしい」、ということになると思いますが、いかがでしょうか。
どのように思われますか。