「よみ」について その18

アブラハムは、「肉にある者」(ローマ8:8、「肉」について その8⦅2022-02-04⦆等)である、ということからすると、アブラハムも何らかの罪を犯したと考えられます。

 

そうすると、アブラハムは「罪を犯した者」(ヨブ24:19、その15前半)になるので、よみ(シェオル)に行(ゆ)く、ということになるのでしょうか。

 

これについては、次のように考えられると思います。

 

聖書では、アブラハムは「義と認められた」(ローマ4:2・11等)、ということが言われています。

 

聖書では、「義と認められる人の幸い」について、ローマ人への手紙4章7節と8節に、次のように書かれています。
***
7節
 「不法を赦され、罪をおおわれた人たちは、
 幸いである。
8節
 主が罪を認めない人は幸いである。」
***

 

これらの節の記述から、義と認められる人は、「不法を赦され、罪をおおわれた人」(7節)であり、「主が罪を認めない人」(8節)である、と言うことができると思います。

 

つまり、アブラハムは何らかの罪を犯したと考えられるのですが、『義と認められた』ので、「罪をおおわれた人」となり、「主が罪を認めない人」になった、ということです。

 

言い換えると、アブラハムは、『罪が無い者』のような人とみなされた、ということです。

 

それは、イエス以降の、イエスを信じる信仰を持つ人と同じです。

 

ローマ人への手紙4章23節から25節までに、次のように書かれています。
***
23節
しかし、「彼の義とみなされた」と書いてあるのは、ただ彼のためだけでなく、
24節
また私たちのためです。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。
25節
主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。
***

 

23節の「彼」というのは、19節の「アブラハム」のこと、と言うことができます。

 

24節1行目から、「・・・私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。」とあり、25節に、「主イエスは、・・・『私たちが義と認められる』ために、よみがえられたからです。」とあります。

 

「私たち」というのは、イエスを信じ、イエスのことばを守る人たちのこと、と言うことができると思います。

 

したがって、「私たち」は「イエス以降の人」たちです。

 

「私たち」は、悔い改めてバプテスマを受けることによって、罪が赦されます。使徒の働き2章38節をご参照ください。

 

そして、キリストであるイエスにあって、罪が取り除かれる者とされます。ヘブル人への手紙9章26節に、「キリストは・・・罪を取り除くために、来られた」と書かれています。

 

つまり、「私たち」は罪が赦され、罪が取り除かれて、『罪が無い者』のような人とみなされる、ということです。

 

『罪が無い者』のような人とみなされるのであれば、もはや、「罪を犯した者」ではないとみなされ、よみ(シェオル)に行(ゆ)くこともないのではないか、と思われます。

 

その19、に続きます。