「肉」について その14

新改訳聖書』第3版のローマ人への手紙7章17節(その13、冒頭)と20節(その13、前半)の記述から、『罪』が「『私のうち』に住」んでいる、と言うことができると思います。

 

また、同章18節に、「・・・私の肉のうちに善が住んでいない・・・」とあります。

 

罪が「私」のうちに住んでいて、「私」の『肉のうちに』善が住んでいないということがあるために、律法は「『肉』によって無力になった」(ローマ8:3、その9前半)、ということではないでしょうか。

 

そして、「『肉』によって無力になったため、律法にはできなくなっていること」がある、ということだと思います。

 

「律法にはできなくなっていること」というのは、
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①「年ごとに絶えずささげられる同じいけにえによって神に近づいて来る人々を、完全にすることができない」ということ、

 

②「雄牛とやぎの血は、罪を除くことができ」ないということ、
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と考えられます。「その10」(2022-07-23)と「その11」(同)をご参照ください。

 

「『肉』によって無力になったため、律法にはできなくなっていること」(ローマ8:3)があり、それを神は、ご自分の御子(みこ)をお遣わしになったことによって、「できるようにされた」、と言うことができると思います。

 

ヘブル人への手紙9章26節に、次のように書かれています。
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26節
もしそうでなかったら、世の初めから幾度も苦難を受けなければならなかったでしょう。しかしキリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。
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2行目から、「・・・キリストは、ただ一度、・・・ご自身をいけにえとして『罪を取り除くために』、来られたのです。」とあります。

 

わたしは、「肉」について その11(2022-07-23)、で、次のように述べました。下から5段落目と4段落目です。

 

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そうすると、12節以降は、はっきりと書かれているわけではありませんが、キリストは「罪を除き去ることができます」、という流れになると考えられます。

 

つまり、いけにえ(雄牛とやぎ)は「罪を除き去ることができ」ないが、キリストは「罪を除き去ることができ」る、ということです。
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「キリストは、・・・『罪を取り除くために』、来られたのです」(ヘブル9:26、上記)、という記述から、キリストは「罪を除き去ることができ」る、と言うことができると思います。

 

キリストは、そのために来られたのです。

 

そして、『罪を取り除く』ことは、「私たちの罪を『その身』に負われ」(Ⅰペテ2:24)た、すなわち、『肉の身』に負われたキリストが、十字架の上で死ぬことによってなされ、それによって、「神は・・・(御子の)『肉』において罪を処罰された」、ということだと思います。

 

罪は「私のうち、すなわち、私の『肉のうち』に」(ローマ7:18)住んでいるので、「神は・・・(御子の)『肉』において罪を処罰された」、ということだと思います。

 

このように、神が「『肉』において罪を処罰され」るために、御子は、女の『人』から産まれて、『肉』のからだを持たなければならなかったのだと思います。

 

いかがでしょうか。どのように思われますか。