「肉」について その11

新改訳聖書』第3版のローマ人への手紙8章3節(その9前半)に、次のように書かれています。
***
3節
肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子(みこ)を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。
***

 

1行目から、「・・・律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。・・・」とあります。

 

2行目から、「・・・神はご自分の御子(みこ)を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。」とあります。

 

これが、すなわち、2行目から書かれていることが、「神がしてくださ」ったこと、と言うことができると思います。

 

「律法にはできなくなっていること」については、「その10」で述べました。①はへブル人への手紙10章1節にあり、②は同10章4節にあります。

 

それは、
***
①「年ごとに絶えずささげられる同じいけにえによって神に近づいて来る人々を、完全にすることができない」ということ、

 

②「雄牛とやぎの血は、罪を除くことができ」ないということ、
***
と考えられます。

 

そして、②があるので、①ということになる、と言うことができると思います。

 

ローマ人への手紙8章3節(上記冒頭)2行目から、「・・・神はご自分の御子(みこ)を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。」とあります。

 

「神は・・・(御子の)肉において罪を処罰された」ので、「罪は除かれることができる」ようになった、と言うことができるのではないでしょうか。

 

へブル人への手紙10章10節から14節までに、次のように書かれています。
***
10節
このみこころに従って、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです。
11節
また、すべて祭司は毎日立って礼拝の務めをなし、同じいけにえをくり返しささげますが、それらは決して罪を除き去ることができません。
12節
しかし、キリストは、*罪のために一つの永遠のいけにえをささげて後(のち)、神の右の座に着き、

 

* あるいは「罪のために一つのいけにえをささげて後、永遠に神の右の座に着き」

 

13節
それからは、その敵がご自分の足台となるのを待っておられるのです。
14節
キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全(まっと)うされたのです。
***

 

11節2行目から、「・・・それら(すなわち、同じいけにえ)は決して罪を除き去ることができません。」とあり、12節冒頭に、「しかし・・・」という逆接の接続詞が続いています。

 

そうすると、12節以降は、はっきりと書かれているわけではありませんが、キリストは「罪を除き去ることができます」、という流れになると考えられます。

 

つまり、いけにえ(雄牛とやぎ)は「罪を除き去ることができ」ないが、キリストは「罪を除き去ることができ」る、ということです。

 

14節に、「キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全(まっと)うされたのです。」とあります。

 

「全(まっと)うされた」ので、「罪を除き去ることができ」るのではないか、あるいは、「罪を除き去ることができ」るようになったので、「全(まっと)うされた」ということになるのではないか、と思われます。

 

その12、に続きます。