『新改訳聖書』第3版のローマ人への手紙6章10節(その8、後半)に続いて、11節に、次のように書かれています。
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11節
このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。
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1行目から、「・・・あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者・・・だと、思いなさい。」とあります。
この場合、「あなたがた」というのは、「罪に対しては死んだ者」だと思うことのできる者である、と言うことができると思います。
アダムは、そのように思うことのできる者だった、と言えるでしょうか。
「罪に対しては死んだ者」だと思うことができるのは、「あなたがた」は『「キリスト・イエスにあ」(ローマ6:11、上記2行目)る者』だからであり、キリストが「罪に対して死なれ」(ローマ6:10、その8後半)たから、ではないでしょうか。
『「キリスト・イエスにあ」(ローマ6:11、上記2行目)る者』というのは、キリストであるイエスを信じる信仰を持った者のこと、と言うことができると思います。
このように、「罪に対して(は)死んだ者」となることができるのは、「キリスト・イエス」以降のことであると思います。
「『キリストが』死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれた」(ローマ6:10、その8後半)のであり、キリスト以前にキリスト『以外』の者が罪に対して死んだということは無い、と考えられるからです。
また、キリストがただ一度罪に対して死なれたので、人も、罪に対して死ぬことができるようになった、からだと思います。
したがって、アダムの時代には、人は「罪に対しては死んだ者」となることはできなかった、と言うことができると思います。
それができるようになったのは、「キリスト・イエス」以降のことである、ということです。
アダムの時代に、アダムがキリストであるイエスを信じる信仰を持つことはできなかったので、アダムはその信仰を持つことは無かった、と言うことができます。
アダムからイエスまでの間は、人が、「罪に対しては死んだ者」であると思うことができるとは言えない、ということになります。
したがって、アダムはそのように思うことのできる者だったとは言えない、ということになります。
神に感謝すべきことだと思いますが、キリストの死によって、アダムによってもたらされた罪や死から、人々を解放する道が備えられた、ということではないでしょうか。
その12、に続きます。