「よみ」について その20

新改訳聖書』第3版のコリント人への手紙 第二12章2節(その19冒頭)に、「キリストにあるひとりの人」が「第三の天にまで引き上げられ・・・た」、ということが書かれています。

 

『引き上げられた』とあるので、よみ(シェオル)に『下る』ことはなかった、と思われます。

 

もしも、よみ(シェオル)に『下る』ことはなかったとすると、なぜ『下る』ことはなかったと考えられるでしょうか。

 

ヨブ記24章19節(その15前半、2022-09-15)2行目の、「*よみ(シェオル)は罪を犯した者を奪う」という言葉から、よみ(シェオル)には、『罪を犯した者』が行(ゆ)くと考えられます。

 

「よみ」について その18、で述べたように、「私たち」つまり「イエスを信じ、イエスのことばを守る人たち」は、『罪が無い者』のような人とみなされる、と考えられます。

 

「キリストにある・・・人」も同様です。

 

「私たち」つまり「イエスを信じ、イエスのことばを守る人たち」は、罪を犯した人たちですが、悔い改めてバプテスマを受けることによって、罪が赦される者となる、と言うことができます。

 

また、罪が赦されて、やがて罪が取り除かれる者となる、と言うことができると思います。

 

つまり、『罪が無い者』のような人になる、ということです。

 

同様に、「キリストにある・・・人」も、このような人になるので、よみ(シェオル)に『下る』ことはない、と考えられるのです。

 

「キリストにあるひとりの人」(Ⅱコリ12:2、その19冒頭)が、なぜ、よみ(シェオル)に『下る』ことはなかったのかと言うと、「キリストにある・・・人」は、『罪が無い者』のような人になるから、と言うことができると思います。

 

ヨブ記24章19節(その15前半、2022-09-15)2行目の記述から、よみ(シェオル)には、『罪を犯した者』が行(ゆ)くと考えられるからです。

 

よみ(シェオル)は、『罪を犯した者』が行(ゆ)く所であって、『罪が無い者』の行(ゆ)く所ではない、ということです。

 

アブラハムも、義と認められたことによって、「罪をおおわれた人」となり、「主が罪を認めない人」になったので、『罪が無い者』のような人になり、よみ(シェオル)に『下る』ことはなかった、のではないでしょうか。

 

アブラハムは葬られて、からだは墓に入れられましたが、「たましい」はよみ(シェオル)に行(い)かなかったのではないか、と考えられます。(アブラハムは葬られて、からだが墓に入れられたことについては、創世記23章7節から9節まで、および25章8節と9節等をご参照ください)

 

アブラハムは「肉にある者」(ローマ8:8、「肉」について その8⦅2022-02-04⦆等)である、ということからすると、「罪を犯した者」(ヨブ24:19、その15前半)であると考えられるので、よみ(シェオル)に行(ゆ)くのではないかと思われるのですが、義と認められたことによって、「罪をおおわれた人」となり、「主が罪を認めない人」になったので、『罪が無い者』のような人になり、よみ(シェオル)に『下る』ことはなかったのではないか、と思われます。

 

いかがでしょうか。