「よみ」について その19

新改訳聖書』第3版のコリント人への手紙 第二12章1節から5節までに、次のように書かれています。
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1節
無益なことですが、誇るのもやむをえないことです。私は主の幻と啓示のことを話しましょう。
2節
私はキリストにあるひとりの人を知っています。この人は十四年前に―肉体のままであったか、私は知りません。肉体を離れてであったか、それも知りません。神はご存じです、―第三の天にまで引き上げられました。
3節
私はこの人が、―それが肉体のままであったか、肉体を離れてであったかは知りません。神はご存じです、―
4節
パラダイスに引き上げられて、人間には語ることを許されていない、口に出すことのできないことばを聞いたことを知っています。
5節
このような人について私は誇るのです。しかし、私自身については、自分の弱さ以外には誇りません。
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2節に、「・・・この人は・・・第三の天にまで引き上げられました。」とあり、3節から4節にかけて、「(3節)・・・この人が、・・・(4節)パラダイスに引き上げられ・・・た・・・」とあります。

 

「この人」というのは、「キリストにあるひとりの人」(2節)のことです。

 

これらの節の記述からすると、「この人」すなわち「キリストにあるひとりの人」(2節)は、よみ(シェオル)に行(ゆ)くことなく、『天』に引き上げられたのではないかと思われます。

 

「肉体のままであった」(2節と3節)にしても、また「肉体を離れてであった」(同)にしても、どちらにせよ、よみ(シェオル)に行くことなく『天』に行った、のではないでしょうか。

 

『天』に行った、ということは間違いなく言えるのですが、よみ(シェオル)に行ったのではない、ということについては書かれていません。

 

しかし仮に、「肉体のまま」で『天』に行ったとすると、死ぬことなく行ったと考えられます。

 

その場合は、よみ(シェオル)には行(い)っていない、と言うことができると思います。

 

エゼキエル書32章21節等の記述から、よみ(シェオル)は「死者」の行(ゆ)くところである、と言うことができるからです。

 

エゼキエル書32章21節は、次のようになっています。
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21節
勇敢な勇士たちは、その国を助けた者たちとともに、よみの中から語りかける。『降りて来て、剣で刺し殺された者、割礼を受けていない者たちとともに横たわれ』と。
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2行目から、「・・・『降りて来て、剣で刺し殺された者、割礼を受けていない者たちとともに横たわれ』・・・」とあります。

 

これは、「勇敢な勇士たち」が「『よみ』の中から語りかける」言葉なので、「『よみ』の中」には、「剣で刺し『殺された者』」がいる、と言うことができます。

 

つまり、『死者』がいる、ということです。

 

コリント人への手紙 第二12章2節(上記冒頭)の、「キリストにあるひとりの人」が死ぬことなく天に行(い)ったとすると、その人は、よみ(シェオル)に行(ゆ)ことはなかった、ということになります。

 

「肉体を離れて」の場合は「死んだ」ということになります。

 

しかし、「第三の天にまで『引き上げられ・・・た』」とあるので、よみ(シェオル)に『下る』ことはなかったのではないかと思われます。

 

その20、に続きます。