「罪」について その10

新改訳聖書』第3版のエペソ人への手紙2章2節(その8前半)の、『罪の中にあって』というのがどのようなことであると考えられるのかについての、もう一つの考え方は、『罪の中にあって』というのは、『犯した罪の中にあって』のこと、というものです。

 

罪を犯した場合、その人は「罪を負う」ことになります。その、自分が『負った罪の中にあって』、ということです。

 

この場合は、自分が負った罪から離れられないで、というような意味になると思います。つまり、自分の中に罪が残る、ということです。

 

この場合も、「あなたがた」とアダムとは、同じような状況にあったと、言うことができると思います。

 

つまり、「罪・・・の中に死んでいた」(エペソ2:1、その3⦅2021-10-28⦆冒頭、及び、その8前半)、ということです。

 

エペソ人への手紙2章1節(その8前半)に、「『自分の』罪過と罪との中に死んでいた」とあるように、『自分の』とあるので、後者の考え方、すなわち、自分が『負った罪の中にあって』という考え方で考えるのがよいのではないか、と思います。

 

エペソ人への手紙2章1節(その8前半)の『死んでいた』というのは、『神に対して死んでいた』、ということであると考えられます。「その8」をご参照ください。

 

アダムは、善悪の知識の木から取って食べたときに『死んだ』と考えられるのですが、それ以降は、「死んでいる」もしくは「死んでいた」、と言うことができると思います。

 

それは、エペソ人への手紙2章1節(その8前半)の「あなたがた」が『死んでいた』、すなわち、『神に対して死んでいた』のと同じであり、アダムも、『神に対して死んでいた』ということではないかと思います。

 

そしてそれは、アダムが『罪に対して死んでいなかった』から、ではないかと思いますが、いかがでしょうか。

 

アダムは「罪に対して死」(ローマ6:10、その8後半)んでいなかった、と言うことができると思います。

 

なぜなら、人が『罪に対して死ぬ』ことができるのは、キリストが「罪に対して死なれ」(ローマ6:10、その8後半)てから以降のことであり、キリストであるイエスを信じる信仰を持った者が、『罪に対して死ぬ』ことができる、と言うことができると思うからです。

 

その11、に続きます。