イザヤ書53章について その4

「大祭司」(マタイ26:65)や「彼ら」(マタイ26:66)のようなユダヤ人だけではなく、弟子たちもまた、「彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ・・・たことを」(イザヤ53:8)、思うことは無かった、のではないかと思いますが、いかがでしょうか。そのことが弟子たちに告げられることは無かったと思います。

 

新改訳聖書』第3版のイザヤ書53章4節に、次のように書かれています。
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53章4節
 まことに、彼は私たちの病を負い、
 私たちの痛みをになった。
 だが、私たちは思った。
 彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
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最後の行に、「彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。」とあります。「彼は・・・『神に』打たれ、苦しめられた・・・」と書かれています。

 

同書53章10節には、次のように書かれています。
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53章10節
 しかし、彼を砕いて、痛めつけることは
 のみこころであった。
 もし彼が、*自分のいのちを
 罪過のためのいけにえとするなら、
 彼は末長く、子孫を見ることができ、
 のみこころは彼によって成し遂げられる。

 

* あるいは「自分自身を」

 

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1行目から、「・・・彼を砕いて、痛めつけることはのみこころであった。」とあります。

 

つまり、「彼」が「打たれ、苦しめられた」(イザヤ53:4)のは、『神に』よって、であり、「彼を砕いて、痛めつける」(イザヤ53:10)のは、『のみこころ』であったということです。言い換えると、「彼」がそのようにされることは、『神』または『』によって、あらかじめ定められていたことである、と言うことができると思います。

 

「大祭司」(マタイ26:65)や「彼ら」(マタイ26:66)にしても、また弟子たちにしても、「彼」がそのようにされることは、『神』または『』によって、あらかじめ定められていた、と思うことは無かったのではないかと思います。

 

「私たちは思った。」(イザヤ53:4)というのは、のちになってからのことだと思われます。

 

弟子たちも、イエスが『神によって』打たれる、ということは思いもよらなかったのではないでしょうか。

 

「彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。」(イザヤ53:8)というのは、以上述べたようなことだと思われます。

 

また、「彼が・・・生ける者の地から絶たれた」(イザヤ53:8)や、「彼のいのちは地上から取り去られた」(使徒8:33)というのも、イエスが『神によって』生ける者の地から絶たれ、『神によって』彼のいのちは地上から取り去られた、ということだと思います。

 

これまで述べて来たことから、イザヤ書53章7節と8節に記されている「彼」というのは、「イエス」のことではないか、と考えられます。

 

また、それらの節だけではなく、53章全体の「彼」も、「イエス」ではないか、と考えられます。