「復活」について その1

新改訳聖書』第3版の使徒の働き2章29節から31節までに、次のように書かれています。
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29節
兄弟たち。父祖ダビデについては、私はあなたがたに、確信をもって言うことができます。彼は死んで葬られ、その墓は今日まで私たちのところにあります。
30節
彼は預言者でしたから、神が彼の子孫のひとりを彼の王位に着かせると誓って言われたことを知っていたのです。
31節
それで後(のち)のことを予見して、キリストの復活について、『彼はハデスに捨てて置かれず、その肉体は朽ち果てない』と語ったのです。
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31節1行目から、「・・・キリストの復活について、『彼はハデスに捨てて置かれず、その肉体は朽ち果てない』と語ったのです。」とあります。誰が語ったのか、と言いますと、それは30節の「彼」であり、「彼」というのは、29節の「父祖ダビデ」のことです。

 

この31節の記述より、『彼はハデスに捨てて置かれず、その肉体は朽ち果てない』というのは、「キリストの復活」のことである、ということが分かります。また、二重カギ(『』)の中の「彼」は「キリスト」を指している、と言うことができると思います。

 

使徒の働き2章27節に、次のように書かれています。
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2章27節
 あなたは私のたましいをハデスに捨てて置かず、
 あなたの聖者が朽ち果てるのを
 *お許しにならないからである。

 

* 直訳「与える」

 

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31節の『彼はハデスに捨てて置かれず、その肉体は朽ち果てない』というのは、この27節に書かれていることであると考えられます。だとすると、この27節に書かれていることは、「キリストの復活」のことである、ということになります。

 

使徒の働き2章32節に、次のように書かれています。
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2章32節
神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。
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1行目に、「・・・このイエス・・・」とあります。この言葉から、31節の「キリスト」というのは「イエス」のことである、と言うことができると思います。そうすると、31節の二重カギ(『』)の中の「彼」というのは、「イエス」のことである、ということになります。

 

また、「彼はハデスに捨てて置かれず」(31節)が、「私のたましいをハデスに捨てて置かず」(27節)のことだとすると、27節の「私のたましい」の「私」は、「イエス」を指している、ということになります。31節の「彼」は「キリスト」であり、また「イエス」であり、「私」は「彼」に当たると考えられるからです。

 

エスの肉体は、アリマタヤのヨセフが「岩を掘って造った自分の新しい墓」(マタイ27:60)に納められました。

 

使徒の働き2章27節の記述より、「私のたましい」、すなわち「イエスのたましい」はハデスに捨てられた、ということが分かります。イエスの肉体は、アリマタヤのヨセフが「岩を掘って造った自分の新しい墓」にありました。

 

「あなたは私のたましいをハデスに捨てて置かず」(使徒2:27)という言葉より、「私のたましい」は「ハデス」から引き上げられ、救われた、ということが考えられます。

 

また、「あなたの聖者が朽ち果てるのをお許しにならない」(使徒2:27)という言葉より、「あなたの聖者」の「肉体」は「たましい」が戻されて「よみがえった」のではないか、と考えられます。

 

まとめて言い換えると、「あなたは私のたましいをハデスに捨てて置かず、あなたの聖者が朽ち果てるのをお許しにならない」使徒2:27)、というのは、「私のたましい」、すなわち「イエスのたましい」はハデスから救い出され、イエスの肉体に戻された、そしてイエスはよみがえり、その結果、「その肉体は朽ち果てない」(使徒2:31)ことになった、ということを意味している、と考えられると思いますが、いかがでしょうか。どのように思われますか。