「墓」について その3

これまで述べてきたことから、詩篇16篇10節(その1、冒頭)の「墓の穴」というのは、エゼキエル書32章22節と23節(その2、前半)に書かれている『墓』、の「穴」のことではないか、と考えることはできると思います。

 

詩篇16篇10節1行目から、「・・・あなたは、私のたましいをよみに捨ておかず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません。」とあります。この中の「あなたは、私のたましいをよみに捨ておかず」、という言葉から、「私のたましい」は、「よみに捨て」られた、ということが分かります。

 

「私のたましい」は「よみに捨て」られたのですが、「あなたは、私のたましいをよみに捨ておか」ないので、「あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません。」と読むことができると思います。

 

「よみに捨ておか」ないので、「墓の穴をお見せにはなりません」、と読むことができると思うのですが、このように読むと、「墓の穴」は「よみ」の中にある、と言うことができるのではないでしょうか。

 

「よみ」の外にある、という可能性はあると思いますが、文脈からすると、中にある、ということになると思います。外にあるのかどうかについては、別に検討しようと思います。さしあたり、中にある、という前提で話を進めます。

 

16篇10節の「あなたの聖徒」が誰であるのかについては、わたしの記事、「聖徒」について その1(2020-11-10)、から、その3、までで述べられています。わたしはそこで、それは「イエス」である、と述べています。

 

ヨハネ福音書19章41節の記述からすると、イエスは「まだだれも葬られたことのない新しい墓」に納められました。そして、マタイの福音書27章60節の記述からすると、その墓は、アリマタヤのヨセフが「岩を掘って造った自分の新しい墓」であった、ということが分かります。「岩を掘って造った」とあるので、岩の「穴」であったと想像されます。その「穴」の中に「墓」があった、ということになると思います。あるいは、その「穴」自体が「墓」であった、と考えることもできると思います。

 

エスはその墓に納められたとき、死んでいたので、「墓の穴」を見ることはなかった、と言うことができると思います。そういう意味では、「あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません」(詩篇16:10)という言葉は、イエスがその墓に納められたときのことに当てはまると思います。

 

しかし、復活されたときには、イエスは「墓の穴」の中で復活された、と考えられるので、「墓の穴」を見た、と思われます。そうすると、この場合は、「あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません」(詩篇16篇10節)、という言葉は当てはまらない、ということになります。

 

このように考えると、詩篇16篇10節(その1、冒頭)の「墓の穴」の「墓」というのは、イエスが死んだあとに納められた「墓」のことではないのではないか、という考えが浮かびます。詩篇16篇10節に「よみ」についての記述があるので、なおさらそう考えられます。

 

詩篇16篇10節(その1、冒頭)の「墓の穴」というのは、「よみ」にある「墓の穴」のことであり、それは、エゼキエル書32章22節と23節に書かれているような『墓』、の「穴」のことではないかと思われますが、いかがでしょうか。