「墓」については、「その2」(2020-11-14)の前半で引用したように、エゼキエル書32章22節と23節にも書かれています。「その墓の回りには、・・・」(22節)とあり、「彼らの墓は穴の奥のほうにあり、・・・」(23節)とあります。
「穴」について(2020-12-11)、で述べたように、このエゼキエル書の「穴」は、『よみの中』にある、と言うことができます。
『新改訳聖書』第3版の詩篇16篇10節に、次のように書かれています。
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16篇10節
まことに、あなたは、私のたましいを
*よみに捨ておかず、
あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません。
* →詩六・五*
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この記述からすると、「私のたましい」は「よみ」に捨てられた、ということが分かります。
「私」というのは、誰でしょうか。『新改訳聖書』第3版の詩篇16篇冒頭に、「ダビデのミクタム」とあります。「私」というのは、「ダビデ」のことでしょうか。
使徒の働き2章25節と26節に、次のように書かれています。
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25節
ダビデはこの方について、こう言っています。
『私はいつも、自分の目の前に主を見ていた。
主は、私が動かされないように、
私の右におられるからである。
26節
それゆえ、私の心は楽しみ、
私の舌は大いに喜んだ。
さらに私の肉体も望みの中に安らう。
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25節の二重カギ(『)のところに、脚注があります。それは、「詩一六・八‐一一」となっています。25節の二重カギ(『)の「相手」(』)は、28節にあります。つまり、使徒の働き2章25節から28節までの、二重カギ(『』)ではさまれた部分は、詩篇16篇8節から11節までを参照してください、ということだと思います。
詩篇16篇8節と9節に、次のように書かれています。
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8節
私はいつも、私の前に主を置いた。
主が私の右におられるので、
私はゆるぐことがない。
9節
それゆえ、私の心は喜び、
私のたましいは楽しんでいる。
私の身もまた安らかに住まおう。
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微妙に違う部分はありますが、使徒の働き2章25節および26節と、非常によく似ています。
例えば、「私はいつも、自分の目の前に主を見ていた。」(使徒2:25)は、「私はいつも、私の前に主を置いた。」(詩篇16:8)とよく似ています。
また、「主は、私が動かされないように、私の右におられるからである。」(使徒2:25)は、「主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。」(詩篇16:8)とよく似ています。
また、「それゆえ、私の心は楽しみ、私の舌は大いに喜んだ。さらに私の肉体も望みの中に安らう。」(使徒2:26)は、「それゆえ、私の心は喜び、私のたましいは楽しんでいる。私の身もまた安らかに住まおう。」(詩篇16:9)とよく似ています。
非常によく似ているので、使徒の働き2章25節の二重カギ以降26節までの引用は、詩篇16篇8節と9節からの引用である、と言ってよいと思います。
使徒の働き2章25節に、「ダビデは『この方』について、こう言っています。・・・」とあります。ということは、二重カギ以降は、『この方』について語られている、ということになります。
つまり、二重カギ以降の『私』というのは、ダビデのことではなく、『この方』のことである、ということになります。
その6、に続きます。