「墓」について その6

新改訳聖書』第3版の使徒の働き2章25節(その5、前半)2行目の、二重カギ(『)以降の『私』というのは、『この方』のことである、と言うことができます。

 

では、『この方』というのは、誰のことでしょうか。

 

使徒の働き2章22節から24節までに、次のように書かれています。
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22節
イスラエルの人たち。このことばを聞いてください。神はナザレ人イエスによって、あなたがたの間で力あるわざと不思議としるしを行われました。それらのことによって、神はあなたがたに、この方のあかしをされたのです。これは、あなたがた自身がご承知のことです。
23節
あなたがたは、神の定めた計画と神の予知とによって引き渡されたこの方を、不法な者の手によって十字架につけて殺しました。
24節
しかし神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、ありえないからです。
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22節下から2行目に、「・・・この方・・・」とあります。これが「ナザレ人イエス」である、ということはお分かりいただけると思います。23節2行目の「・・・この方・・・」も同じです。同節の「・・・この方を、不法な者の手によって十字架につけて殺しました。」という言葉からも、『この方』が「ナザレ人イエス」である、ということが分かります。

 

24節1行目と2行目の「・・・この方・・・」についても、同じことが言えます。

 

同様に、25節の『この方』も「ナザレ人イエス」である、と言うことができます。

 

つまり、使徒の働き2章25節(その5、前半)2行目の、二重カギ(『)以降の『私』というのは、「ナザレ人イエス」のことである、ということです。

 

そして、使徒の働き2章25節2行目の、二重カギ以降の引用は、詩篇16篇8節以降からの引用であると考えられるので、詩篇16篇8節(その5、後半)等の『私』というのは、「ナザレ人イエス」、あるいは『イエス』のことである、と言うことができると思います。

 

そうすると、詩篇16篇10節(その5、前半)1行目の「・・・私のたましい・・・」の『私』というのも、『イエス』のことである、ということになります。

 

その7、に続きます。