「墓」について その9

キリストは「罪を犯したことがなく」、とペテロの手紙 第一2章22節に書かれています。そして、同章24節には、「・・・私たちの罪をその身に負われました・・・」とあります。

 

また、コリント人への手紙 第二5章21節には、次のように書かれています。
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5章21節
神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。
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1行目に、「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。」とあります。

 

つまり、「イエスのたましい」は、イエスが人の罪を負い、罪とされ、「罪のある者」とされたので、「よみに下った」、と言うことができると思いますが、いかがでしょうか。

 

エゼキエル書32章21節の「勇敢な勇士たち」は「よみの中」にいる、と考えられるので、「勇敢な勇士たち」は「よみに下った」者たちである、と言うことができます。つまり、「勇敢な勇士たち」は「悪者」または「罪のある者」である、ということです。

 

イザヤ書53章9節(その4、冒頭)に、「彼の墓は悪者どもとともに設けられ・・・た。・・・」とあります。「彼の墓」すなわち「イエスの墓」が、例えば、よみの中の穴の奥のほうにある「勇敢な勇士たち」の墓とともに設けられたとすると、「彼の墓」は「悪者どもとともに設けられた」、と言うことができると思います。

 

イザヤ書53章9節2行目に、「彼は富む者とともに葬られた。」とあります。「勇敢な勇士たち」が「富む者」であるとすると、一見、そのように言えるかのように思えます。

 

しかし、詩篇16篇10節(その5、前半)に、「・・・あなたは、・・・あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません。」とあります。「あなたの聖徒」は「墓の穴」には入らなかった、入らなかったので、墓の穴を見ることはなかった、と考えられます。つまり、墓に『葬られる』ことはなかった、ということです。

 

そうすると、「彼は富む者とともに『葬られた』」という訳で理解するのは難しい、ということになります。むしろ、脚注にある訳であれば、理解できると思います。

 

脚注にある訳の一つ目は、「彼は彼のむごい死において富む者といっしょであった」、です。これは、「彼」の「死の状況」のことを言っている、と読むことができます。「富む者」の死は「むごい」ものだったが、「彼の死」も「むごい」ものだった、と読むことができます。

 

これだと、「富む者」とともに『葬られた』、ということとは関係のない内容になります。

 

もう一つの脚注にある訳は、「彼の塚は富む者とともに設けられた」、です。この場合は、『設けられた』、のであって、墓の場合と同じです。「墓」にしろ「塚」にしろ、『設けられた』のではあるが、そこに入ることはなかった、と考えることができます。そこに入ることはなかった、言い換えると、『葬られる』ことはなかった、ということです。

 

このように、イザヤ書53章9節(その4、冒頭)の「彼の墓」というのは、エゼキエル書32章22節と23節(その2、前半)に書かれているような、よみの中の穴の奥のほうにある墓、のような墓のことと考えると、理解できるのではないでしょうか。

 

どのように思われますか。