「神殿」について その12

新改訳聖書』第3版のエズラ記9章10節から12節まで(その11中ほどか、後半)に、次のように書かれています。
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10節
今、こうなってからは、何と申し上げたらよいのでしょう。私たちの神よ。私たちはあなたの命令を捨てたからです。
11節
あなたは、あなたのしもべ、預言者たちによって、こう命じておられました。『あなたがたが、入って行って所有しようとしている地は、そこの国々の民の、忌みきらうべき行いによって汚(けが)された汚(けが)らわしい地であり、その隅々(すみずみ)まで、彼らの汚(けが)れで満たされている。
12節
だから、今、あなたがたの娘を彼らの息子にとつがせてはならない。また、彼らの娘をあなたがたの息子にめとってはならない。永久に彼らの平安も、しあわせも求めてはならない。そうすれば、あなたがたは強くなり、その地の良い物を食べ、これを永久にあなたがたの子孫のために所有することができる』と。
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10節2行目から、「私たちの神よ。私たちはあなたの命令を捨てたからです。」とあります。

 

「あなた」というのは、「私たちの神」のことである、ということが分かると思います。

 

「私たちの神」(10節)はその命令として、「彼らの娘をあなたがたの息子にめとってはならない」(12節)と命じておられました。

 

そのように命じておられたのですが、エズラ記9章1節と2節(いずれも、その11前半)に書かれていることから分かるように、「私たちはあなたの命令を捨てた」(10節)、のです。

 

それは、『不信の罪』(9章2節、その11前半)と言われています。

 

エズラ記10章13節に、次のように書かれています。
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13節
しかし、民は大ぜいであり、また、大雨の季節ですから、私たちは外に立っていることができません。しかも、これは一日や二日の仕事でもありません。このことでは、私たちの多くの者がそむいているのですから。
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3行目から、「・・・このことでは、私たちの多くの者が『そむいている』のですから。」とあります。

 

「このこと」というのは、何でしょうか。

 

それは、10章10節の、「・・・不信の罪を犯し」、「外国の女をめとって、イスラエルの罪過を増し加えた」こと、と言うことができると思います。

 

エズラ記10章10節は、次のようになっています。
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10節
祭司エズラは立ち上がって、彼らに言った。「あなたがたは、不信の罪を犯した。外国の女をめとって、イスラエルの罪過を増し加えた。
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10章13節(上記)3行目からの引用は、「・・・不信の罪を犯し」、「外国の女をめとって、イスラエルの罪過を増し加えた」ことでは、「私たちの多くの者が『そむいている』のですから。」というようになります。

 

「彼らも、その息子たちも、これらの国々の娘をめと」(エズラ9:2、その11前半)ったことは、『不信の罪』と言われているのですが、それは、『そむいている』ことでもある、と言うことができると思います。

 

エゼキエル書37章23節(その11冒頭)には、「彼らは『二度と』・・・あらゆる『そむき』の罪によって身を汚さない」、とあります。

 

しかし、エズラ記の時代には、9章1節と2節(いずれも、その11前半)に書かれているように、「イスラエルの民や、祭司や、レビ人(びと)」は、「これらの国々の娘をめとり」、『そむいた』、のです。

 

エズラ記の時代には、イスラエル人は『再び』そむいた、のです。

 

つまり、エゼキエル書37章23節(その11冒頭)に書かれていることは、エズラ記の時代のことではない、ということです。

 

エゼキエル書37章23節との関連からも、同章21節(その7、及びその8)と22節(その9、及びその10)に書かれていることは、エズラ記の時代のことではない、と言うことができます。

 

その13、に続きます。