「神殿」について その9

新改訳聖書』第3版のエゼキエル書37章22節に、次のように書かれています。
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22節
わたしが彼らを、その地、イスラエルの山々で、一つの国とするとき、ひとりの王が彼ら全体の王となる。彼らはもはや二つの国とはならず、もはや決して二つの王国に分かれない。
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1行目から、「わたしが彼らを、その地、イスラエルの山々で、一つの国とするとき、ひとりの王が彼ら全体の王となる。・・・」とあります。

 

この「彼らを」というのは、37章21節(その8冒頭)最後の行の「彼らを」のこと、と言うことができると思います。

 

そしてその「彼ら」というのは、21節(その8冒頭)2行目の、「イスラエル人・・・」のこと、と言うことができます。

 

21節から22節第一文までの流れは、「わたしは、イスラエル人を・・・連れ出し、彼らを・・・集め、彼らの地に連れて行(い)く」(21節)、そして「彼らを、その地・・・で、一つの国とする」(22節)、そのとき、「ひとりの王が彼ら全体の王となる」(22節)、になります。

 

22節の「その地」(1行目)というのは、21節の「彼らの地」(最後の行)のことで、「イスラエルの山々」(22節)のことと言うことができると思います。

 

つまり、22節は21節の続きである、ということです。

 

エゼキエル書37章21節(その8冒頭)に、「・・・わたしは、イスラエル人を・・・彼らの地に連れて行(い)く。」とあることから、一見するとそれは、エズラ記の時代に、バビロンにいた捕囚の民が帰還したときのことのように思えます。

 

しかし、「その8」後半で述べたように、そうではないと言うことができます。

 

上記冒頭22節では、「わたしが彼ら(すなわち、イスラエル人)を、その地、イスラエルの山々で、『一つの国』とする・・・」、ということが言われています。

 

エズラ記の時代に帰還した捕囚の民は、『一つの国』とされた、と言えるでしょうか。

 

エズラ記5章8節に、次のように書かれています。
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8節
王にお知らせいたします。私たちはユダの州に行(い)き、あの大いなる神の宮に行ってみましたが、それは大きな石で建てられており、壁には木材が組まれていました。その工事は彼らの手で着々と進められ、順調にはかどっています。
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「王」というのは、「ダリヨス王」(エズラ5:6・7)のことです。

 

また、「私たち」というのは、「川向こうの総督タテナイと、シュタル・ボズナイと、その同僚の川向こうにいる知事たち」エズラ5:6)のことです。

 

1行目に、「・・・私たちは『ユダの州』に行(い)き、・・・」とあります。

 

この記述から、このときユダは『州』である、ということが分かります。

 

そしてこのとき、8節1行目から、「・・・私たちはユダの州に行(い)き、あの大いなる神の宮に行ってみましたが、それは大きな石で建てられており、壁には木材が組まれていました。その工事は彼らの手で着々と進められ、順調にはかどっています。」とあることから、捕囚の民はバビロンから帰還している、ということが分かります。

 

神の宮の工事が行なわれているからです。

 

つまり、捕囚の民がバビロンから帰還しているときであっても、ユダは『州』である、ということです。

 

バビロンの『属州』である、と言うことができるのではないかと思います。

 

『一つの国』(エゼキエル37:22、上記冒頭)ではない、ということです。

 

このことから、エゼキエル書37章22節(上記冒頭)に書かれていることは、エズラ記の時代に、捕囚としてバビロンにいイスラエルの民が彼らの地に帰って来たときのことではない、と言うことができます。

 

そして、22節は21節の続きである、と言えるので、21節も、「その8」後半で述べたように、エズラ記の時代のことではない、と言うことができます。

 

その10、に続きます。