「神殿」について その7

新改訳聖書』第3版のエゼキエル書37章21節に、次のように書かれています。
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21節
彼らに言え。神である主はこう仰せられる。見よ。わたしは、イスラエル人を、その行(い)っていた諸国の民の間から連れ出し、彼らを四方から集め、彼らの地に連れて行(い)く。
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1行目に、「彼らに言え。・・・」とあります。

 

エゼキエル書37章17節から19節までに、次のように書かれています。
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17節
その両方をつなぎ、一本の杖とし、あなたの手の中でこれを一つとせよ。
18節
あなたの民の者たちがあなたに向かって、『これはどういう意味か、私たちに説明してくれませんか』と言うとき、
19節
彼らに言え。神である主はこう仰せられる。見よ。わたしは、エフライムの手にあるヨセフの杖と、それにつくイスラエル諸部族とを取り、それらをユダの杖に合わせて、一本の杖とし、わたしの手の中で一つとする。
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19節1行目に、「彼らに言え。・・・」とあります。

 

この「彼ら」というのは、18節1行目の、「あなたの民の者たち・・・」のこと、と言うことができます。

 

エゼキエル書37章15節から17節までに、次のように書かれています。
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15節
次のようなのことばが私にあった。
16節
「人の子よ。一本の杖を取り、その上に、『ユダと、それにつイスラエル人のために』と書きしるせ。もう一本の杖を取り、その上に、『エフライムの杖、ヨセフと、それにつくイスラエルの全家のために』と書きしるせ。
17節
その両方をつなぎ、一本の杖とし、あなたの手の中でこれを一つとせよ。
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17節に、「・・・あなたの手の中で・・・」とあります。

 

この「あなた」というのは、16節でが「人の子よ。」と呼びかけていることから、「人の子」のことである、と言うことができます。

 

そしてこの「人の子」というのは、15節に、「次のようなのことばが『私』にあった。」とあることから、『私』のことである、と言うことができます。

 

は、『私』に対して、「人の子よ。」と呼びかけられたからです。

 

そうすると、17節の「あなた」というのは、15節の『私』のことになります。

 

『私』とは誰でしょうか。

 

エゼキエル書1章1節から3節までに、次のように書かれています。
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1節
第三十年の第四の月の五日(いつか)、私がケバル川のほとりで、捕囚の民とともにいたとき、天が開け、私は神々しい幻を見た。
2節
それはエホヤキン王が捕囚となって連れて行(い)かれてから五年目であった。その月の五日(いつか)に、
3節
カルデヤ人の地のケバル川のほとりで、ブジの子、祭司エゼキエルにはっきりとのことばがあり、の御手が彼の上にあった。
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2節と3節に書かれていることは、1節に書かれていることに説明が加えられたもの、と言うことができると思います。

 

この説明によって、1節の「私」は「エゼキエル」である、ということが分かると思います。

 

1節はエゼキエル本人の言葉であり、2節と3節は、エゼキエル以外の人の言葉であると言うことができます。

 

エゼキエル書1章1節の「私」というのは「エゼキエル」のことですが、37章15節(上記)の『私』も、「エゼキエル」であると言うことができると思います。

 

その8、に続きます。