「神殿」について その6

新改訳聖書』第3版のエゼキエル書37章27節(その5冒頭)に、「わたしの住まいは彼らとともにあり、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」とあります。

 

コリント人への手紙 第二6章16節(その4中ほど)に、次のように書かれています。
***
16節
神の宮と偶像とに、何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。神はこう言われました。
 「わたしは彼らの間に住み、また歩む。
 わたしは彼らの神となり、
 彼らはわたしの民となる。
***

 

3行目から、「わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」とあります。

 

これは、エゼキエル書37章27節(その5冒頭)の、「わたしの住まいは彼らとともにあり、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」と、非常によく似ています。

 

ほぼ同じ、と言ってよいと思います。

 

上記コリント人への手紙 第二6章16節の場合、「私たちは生ける神の宮なのです」、とあることからすると、同節3行目の、「・・・彼らの間に住み・・・」の「彼ら」というのは、「私たち」のことを指していると思われます。

 

「私たちは生ける神の『宮』なのです」、ということは、神は『私たち』のうちに住まわれる、と言うことができるからです。

 

そして、この場合の『私たち』というのは、『キリストにある者』のこと、と考えられます。

 

『私たち』の中には、パウロも含まれ、またパウロのような人たちも含まれる、と考えられるからです。

 

上記コリント人への手紙 第二6章16節3行目からの、「わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」と、エゼキエル書37章27節(その5冒頭)の、「わたしの住まいは彼らとともにあり、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」とは非常によく似ているので、同じことを言っているのではないか、という考えが浮かびます。

 

しかし、コリント人への手紙の場合の『彼ら』は『キリストにある者』のことと考えられるのに対して、エゼキエル書の場合の『彼ら』は、「その5」の終わりのほうで述べたように、どのような人々を指すのかについては、はっきりしていません。

 

これについては、引き続き考えます。

 

とは言え、非常に複雑な感じがします。

 

その7、に続きます。