「暴虐」について その11

新改訳聖書』第3版のエゼキエル書8章17節(その10、冒頭)2行目から、「・・・彼らがここでしているような忌みきらうべきこと・・・」とあります。

 

「彼ら」というのは、16節(その10、冒頭)2行目からの、「・・・二十五人ばかりの人・・・」のこと、と言うことができると思います。

 

つまり、「の宮の本堂の入口の玄関と祭壇との間に」(16節、その10冒頭)いる「二十五人ばかりの人」は、「忌みきらうべきこと」をしている、ということです。

 

その「忌みきらうべきこと」というのは、「の宮の本堂に背を向け、顔を東のほうに向けて、東のほうの太陽を拝んでい」(16節)る、ということです。

 

このような人たちが、「この地(すなわち、『エルサレム』)を暴虐で満たし・・・ている」(17節3行目から)、ということになります。

 

8章17節(その10、冒頭)3行目から、「・・・彼らはこの地を暴虐で満たし、わたしの怒りをいっそう駆り立てている。・・・」とあります。

 

新改訳聖書』第3版のエゼキエル書8章18節に、次のように書かれています。
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18節
だから、わたしも憤って事を行う。わたしは惜しまず、あわれまない。彼らがわたしの耳に大声で叫んでも、わたしは彼らの言うことを聞かない。」
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二つの「彼ら」というのは、16節(その10、冒頭)2行目からの、「・・・二十五人ばかりの人・・・」のこと、と言うことができると思います。

 

「彼ら」が「イスラエルの民」を指している可能性はある、と思います。

 

17節から18節にかけての、かぎかっこ(「」)ではさまれた部分は、「この方」が仰せられたことばです。

 

「この方」というのは、8章2節の、「火のように見える姿」をした方のことであり、「その腰と見える所から下のほうは火で、その腰から上のほうは青銅の輝きのように輝いて見えた」方、のことです。

 

「この方」は、「」のことばを伝えに来た方である、と言うことができると思います。

 

そうすると、「わたしの怒り」(17節下から3行目)の「わたし」というのは、事実上「」のことを指している、と言うことができると思います。

 

8章17節(その10、冒頭)3行目から、「・・・彼らはこの地を暴虐で満たし、わたしの怒りをいっそう駆り立てている。・・・」とあります。

 

言い換えると、「二十五人ばかりの人」たちが『エルサレムを暴虐で満たしていることが、「わたしの(すなわち、の)怒りをいっそう駆り立てている」、となるのではないでしょうか。

 

「この地」というのは、「イスラエルの地」のことである、という可能性はあります。

 

その12、に続きます。