「暴虐」について その2

新改訳聖書』第3版のエゼキエル書7章7節と8節に、次のように書かれています。
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7節
この地に住む者よ。あなたの上に終局が来る。その時が来る。その日は近い。しかし、山々での歓声の日ではなく、恐慌の日だ。
8節
今、わたしはただちに、憤りをあなたに注ぎ、あなたへのわたしの怒りを全うする。わたしはあなたの行いにしたがって、あなたをさばき、あなたのすべての忌みきらうべきわざに報いをする。
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8節1行目から、「今、わたしはただちに、憤りをあなたに注ぎ、あなたへのわたしの怒りを全うする。・・・」とあります。

 

「わたし」というのは、「」(7章1節)、もしくは「神である主」(同章5節)のこと、と言うことができます。

 

また、「神である」(同章2節)のこと、と言うことができます。

 

8節1行目からは、「今、『神である』はただちに、憤りをあなたに注ぎ、あなたへの『神である』の怒りを全うする。・・・」となります。

 

「あなた」というのは、「この地に住む者」(7節、上記冒頭)のことと言えるので、神であるは、憤りを『この地に住む者』に注ぎ、『この地に住む者』への神であるの怒りを全うする、ということになります。

 

神であるは、なぜ、憤りを、この地に住む者に注ぎ、この地に住む者への怒りを全うする、と言われているのでしょうか。

 

8節2行目から、「・・・わたしはあなたの行いにしたがって、あなたをさばき、あなたのすべての忌みきらうべきわざに報いをする。・・・」とあります。

 

「あなたの行い」や、「あなたのすべての忌みきらうべきわざ」のためではないでしょうか。

 

「あなたの行い」というのは、言うまでもなく、『悪い』行ないのことです。

 

『暴虐』は、『悪い』行ないであり、忌みきらうべきわざである、と言うことができるのではないでしょうか。

 

神であるは、なぜ、憤りを、この地に住む者に注ぐのかと言うと、この地に住む者は『暴虐』を行なうから、ではないでしょうか。

 

『暴虐』が行なわれ、『暴虐』が支配するようになるので、それに対して神であるの憤りが注がれ、この地に住む者は滅ぼされ、「いなくなる」(7章11節、その1冒頭)のではないか、と考えられるのです。

 

「その1」(2021-12-14)の下から3段落目に、「もう少し説明を加えますと、・・・」と言いましたが、その段落について、さらに説明を加えると、以上のようになります。

 

いかがでしょうか。