『新改訳聖書』第3版のエレミヤ書20章7節と8節に、次のように書かれています。
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7節
主よ。あなたが私を惑わしたので、
私はあなたに惑わされました。
あなたは私をつかみ、私を思いのままにしました。
私は一日中、物笑いとなり、
みなが私をあざけります。
8節
私は、語るごとに、わめき、
「暴虐だ。暴行だ」と叫ばなければなりません。
私への主のみことばが、一日中、
そしりとなり、笑いぐさとなるのです。
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7節4行目から、「私は一日中、物笑いとなり、みなが私をあざけります。」とあり、8節3行目から、「私への主のみことばが、一日中、そしりとなり、笑いぐさとなるのです。」とあります。
8節下から2行目の、「私への主のみことば・・・」という言葉から、主は「私」に、みことばを与えられる、ということが分かります。
「私」はそのみことばを「みな」(7節)に語る、と言うことができます。
8節(上記)3行目から、「私への主のみことばが、一日中、そしりとなり、笑いぐさとなるのです。」とあります。
エレミヤ書19章15節(その4、冒頭)の、主が仰せられたことばは、「私への主のみことば」の一つである、と言うことができます。
そこでは、「わたしはこの町と、すべての町々に、わたしが告げたすべてのわざわいをもたらす。」(19章15節)と、『よくない』ことが言われています。
また、エレミヤ書19章3節から9節までに書かれていることも、「私への主のみことば」(20章8節、上記)の一つである、と言うことができます。
19章3節から9節までを読むと、非常に『よくない』ことが言われています。
また、そんなことは無いだろうと、とうてい信じられないようなことも言われています。
だから、聞いた人たちにとって、「私への主のみことば」は、とうてい信じられないようなことなので、「私への主のみことばが、一日中、そしりとなり、笑いぐさとなる」(20章8節、上記)、のではないでしょうか。
そして、「私は一日中、物笑いとなり、みなが私をあざけります」(20章7節、上記)、ということになるのではないでしょうか。
エレミヤ書19章3節から9節までに書かれている、「私への主のみことば」(20章8節、上記)は、「『瀬戸のかけらの門』の入口にあるベン・ヒノムの谷」(19章2節)で、主が「私」に語られたみことばです。
一方、19章15節(その4、冒頭)のみことばは、『エルサレム』で、主がエレミヤに語られたみことばです。
そして、パシュフルがエレミヤに加えた「暴行」と「暴虐」は、主の宮がある『エルサレム』で行なわれた、と言うことができると思います。
『私は、語るごとに、わめき、「暴虐だ。暴行だ」と叫ばなければなりません』(20章8節、上記)、というのは、『エルサレム』でのこと、と言うことができると思いますが、いかがでしょうか。
どのように思われますか。